お寺と文化


おはようございます。副住です。

昨日は鎌倉に行ってきました。

鎌倉で指導を受けているのです。

毎月少なくても一度は鎌倉に寄せていただきます。

これは貴重な自己研鑽の場となってます。

正直忙しない日々ですから、休みたい気持ちがありますが、

鎌倉は私の休みを無くしても行かねばならない研鑽の場なので

す。不思議なもので、私そのものを突き動かす流れの中にいる

ような感覚。

本当はそのような「私そのものを仏様の方向に向かわせる流れ」

を本願力というのですが。

不思議と鎌倉に行って学ぶことが、私の中では本願力にも通じて

いるようにも受け止められたりして、しかし、扱っている内容

そのものは、阿弥陀仏ではない。なんだか、理論化することで

違うものとなってしまうような感覚のものを学んでいます。

だから、表現するのが難しくて。

もっとも、本願力は仏様の力だから、それを私が理屈づけようと

考えること自体が問題なのですが。

さて、そんな上記の不思議さが、鎌倉に私を向かわせるようなの

です。本来の面倒臭がり屋の私から言わせれば「わざわざ仕事で

もないのに、忙しない中、鎌倉に行かなくても・・・」と思うは

ずなのですが、なぜかそんな気持ちにもならない。これが不思議

妻からも「調子が悪いんだから鎌倉にいかないで休みなよ」と

言われるのですが、他人に移る病気でもないこともあり、

「いや、行ってくるよ」と向かってしまうのです。

好きであれば、理解できるのですが、別に趣味でもないのです。

ただ、何となく、直感的に、猛烈に大事だ!と感じるのです。

だからこそ、「行ける時に行かねば」と、何となく身体全体が

動くのです。

そして、鎌倉で議論すること3~4時間。おおよそ私が一方的に

話を聞いているのですが。

ただ、その内容が深い。理論を超える話であり、理論を用いる話

でもあるのです。だから凄い矛盾も多い。

理論と感性の間を行ったり来たりしているわけです。

私はとても理論的ですから、理論を大事にしていますが、そんな

理論は人間の世界だけの話。人間の世界を超えている世界におい

ては、理論なんて何の役にもたたないわけです。

人間の世界を超えている世界を表現しようとしたものこそが、本

物の芸術の世界であり文化財の世界。

人間の世界を超えた世界を表現しているものだからこそ、それを

感じるとることが本来は大切。本来的に感性が優れている人は、

言葉を介さなくても、それを見た瞬時に感動する。

しかし、そんな人は多くない。だから理論的に説明をすることで

「その物が何物であるのか」を伝えないといけない。

理論を聞いて、初めてそれが入口になり得ることもある。

本物の芸術作品などは、皆に平等である。だからこそ、それを感

じられる人だけの物としてはいけない。それを感じられない人に

も、道を開いておかないといけない。つまりそんな人の為に、理

論的に伝える方法を持っていないといけない。

しかし、理論を用いることで、本来芸術作品に詰まっている「人

間を超えた世界」を、人間の世界の枠で語ってしまうわけで、

本質を伝えきれない。

本来は理論を離れた世界を感じてもらいたいのに、理論で説明す

ることによって、却って理論に縛られてしまい、本質が見えづら

くなってしまう。

上記のような内容が、鎌倉で話す主要な内容です。

凄く宗教と近いでしょ。そして、浄土真宗とも共通する部分があ

る。

上記に記したように、芸術・文化財が対象なのですが、もう少し

展開すると阿弥陀仏にも通じてくるように感じるのです。

だから本願力の中にあるようにも受け止められて・・・

これまで宗教(仏教)を学んできましたが、宗教は非常に芸術や

文化という分野にドストレートに影響していると思います。

だからこそ、お寺はもっと本物の芸術品や文化財を活用して、仏

教を伝えていかないといけないと思わされます。

私が今思っている今後のお寺は、「日本文化」「地域文化」など

の発信地とならねばならないと考えています。

このことは、色んな場所で言われていることですが、おそらく多

くの人が、その本質を理解しているのか微妙に思います。

お寺と文化・・・当然のように結びつきますが、なぜ結びつくの

か? なにが結びつくのか? 何を発信するのか? どんな方法

で発信するのか?など、様々な視点から質問をすれば、あやふや

になってしまう人が多いのではないでしょうか?

私は、鎌倉で学びを深めて、そこら辺が見えてきたように感じて

いるのです。

う~ん。それにしても、昔ながらのお寺は、とても良い環境です

西照寺は近代的な本堂だし、その意味では残念ではあります。

しかし、だからといって、お寺と文化を結び付けられなくもない

と思います。

現代と昔をつなぐ中継点、いわゆる「ハブ」という部分にお寺の

今後がかかっているように思うのです。

西照寺も、そのような視点を盛り込んで、活動を展開していきた

く考えています。もっと沢山学ぶことがでてきました。

あー、もう一人じゃ無理。だれか助けて。