なぜ葬儀は必要か(葬儀の意味)


こんにちは 副住です。

昨日はシンポジウムの日でした。築地本願寺のご本堂にて行いました。
私が司会をさせていただきました。400~500名の方がきてくださいました。
シンポジウムという性格上の問題もありましたが、
個人的には納得がいきませんでした。もっと上手く進行すべきでしたし
大切な部分をもっと言えるよう整えられたらと後悔があります。

さて、シンポジウムの要点を記載しようと思います。
講題は「なぜ葬儀は必要か」とのものでした。
一点目のポイントは、葬儀の前提となる人の死をどう捉えるかという問題です。
宮崎哲弥さんのご発言では、
「死というものを合理的に意味を明らかにすることは、現代の科学や知性をもってしても無理である。
もし、死に意味づけできるものがあるならば、それは宗教の力である」とのことでした。

死の意味づけがなぜ必要であるのかを問うならば、そこに生の意味づけが明らかとなるからであります。
例えば、食物を食べて、美味しいと思うには、まずいことを知らないと 本当に美味しいとわかることがありません。
それを生死にあてはめるならば、死という意味がわからなければ、生の意味もあやふやとなってしまうでしょう。
つまり、人は死の意味づけができる時、同時に生の意味が明らかとなり、そこに生き生きとした人生が展開してくるという側面があるのです。
現在の葬儀には、宗教者からの死の意味づけが欠落していってしまっている。そこに儀式の形骸化があり、悲劇があるのだとご指摘くださいました。

自分の宗教をもつことは、死の意味づけを与えられ、生の充実感を得るために大切なことであり、
そこが上手くできていないとすれば、日本の葬儀が意味をなさないとご指摘くださいました。

二点目のポイントです。葬儀の儀礼ということについてです。
釈さんにご発言いただきました。
葬儀の儀礼とは、ネアンデルタール人であった時から、人間の営みとして行われていたとのことです。
つまり、宗教よりも古くから 葬送儀礼は行われていたというのです。
その儀礼の役割とは、「人の死を受け入れていく為のもの」とのことでした。
儀礼を通して 故人の死を受け止めていける作用が、文化を問わず人間の営みとして行われてきたのです。
従って、「なぜ葬儀は必要か」との問いを持つこと自体が、人間のもつ営みから外れていく、不思議な問いであるとのことでした。

上記の二つのポイントが「宗教が果たす葬儀の意味」とまとめられましょう。

補足としてですが、葬儀の儀礼だけが、死を受け止めていくことにはならないとのことです。
仏教でいえば、以後の49日やご法事、月参り(故人の命日に毎月僧侶が自宅のお仏壇でお参りすること)などの
儀礼を通じて、徐々に死を受け止めていくことができるとのことです。また、そこに宗教者が関わることによって
死の意味づけに導き、生の意味を充実させる役割があるとのことです。
そのような意味では、普段から宗教者との関わりをもっていくことが、葬儀の意味を明確にすることとなるとのことでした。

最後に、信頼できる宗教者と出会うためにはどうしたらいいのか?とのご質問があがりました。
宮本さんの答えとして、お寺によっては開かれた活動をしているところもあります。
その場に参加することで、住職の性格や人柄を知ることができます。
そのような場に参加してみることも一つの方法だと思います。とのことでした。
また、お寺もより情報を発信し、皆さんに知ってもらえる努力をしないといけないとのことでした。

西照寺もまずは、ブログを主とし情報を発信していこうと思いました。

関連記事


「なぜ葬儀は必要か(葬儀の意味)」への1件のフィードバック

  1. シンポジュームの進行役、お疲れ様でした。
    今晩は確か「歎異抄講座」の講師でしたね。
    さて、宗教者との関わりですが、“お西”の看板を“縁”に二人の信頼できる宗教者に出会うことが出来き本当に良かったと思っています。小生、常日頃過去を振り返ったときにいろいろな面で“人”に恵まれた人生だったと感じています。
    なお、お寺からの情報発信の手段として「HP」、「ブログ」も有効でしょうが広い年代層を考えた場合、ハードウエア(紙媒体等、)による情報発信も考えておく必要があるかもしれません。
    一方的な情報発信に終わるのではなく“情報交換”が出来る「法話会」等の人が集まる機会を増やすことが出来ねば良いのだが・・・。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

*