わかりやすい仏教(11.無明④)


こんにちは 副住です。

久しぶりに、連載の続きとなります。

前回(7月20日頃)のブログでアップした質問を通して、

考えてみてください。

私たちは普段、「死ぬかもしれない」という思いにはなりません。

それは煩悩が「死」を遠ざけようとしているから。

死にたくないのです。

しかしながら、頭で考えるとわかるように、

若いからといって死なないとは限りません。

縁があったら、誰でも死ぬのです。

それが頭で理解できているから、

「明日、生きているかわからない」と答えられるのです。

それなのに、私たちは頭で理解できることを、

心から理解できているかと言われると、そうではない。

心では、「明日は死なない」と思っている。

私たちは煩悩を抱えているので、誰でも同じなのです。

だからきっと、病気などで死期を告げられたら、

動揺するし納得できないのです。

でも、「いずれは死ぬ」と頭では理解できているのに。

死別という苦しみがあります。愛別離苦と言います。

愛する者と別れなければいけない苦しみのことです。

でも、仏教では諸行無常といって、常なるものは何もないと言います。

誰でも死ぬのです。それは誰しも頭で理解できています。

でも、いざそれが自分の身に降りかかってくると、理解できないのです。

猛烈な悲しみと同様と信じたくない気持ちになるのです。

その原因こそ、私たちが持つ、煩悩のまま正直な心にあるのです。

無明とは、物事の道理に「明るく無い」と書きます。

諸行無常が物事の道理ですから、そこに明るく無いのは、

私たちの煩悩の心ということです。

なるほど、そうだなぁと思わされます。

だからこそ、煩悩に惑わされる人生であることを、私たちは知るべきなのです。

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