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西照寺 文化財鑑賞会


こんばんは 副住です。

今日は昼間に頭痛がしたのですが、現在は復調しました。

頭痛が起こることは滅多にありませんので、ちょっと不安でした。

でも2時間程度で治ってしまいました。

夕刻からは、完全復調。

さて、昨日から西照寺ではちょっとした隠れイベントをしております。

それが文化財鑑賞会です。

私がこの数年、何度も鎌倉にお邪魔していたことと関係していることなのです。

一部ですが、ご本堂でこんな展示をしています。

 

 

 

 

 

 

 

ケーブルTVさんが取材に来てくださいました。

「文化財という物を生かして、人々の心の癒し、あるいは文化財のもつパワーに触れていただき、それを持って帰っていただきたい」

というある方の想いから始まった企画です。

ブログで取りあえずご紹介できる日程は

西照寺の本堂にて25日の土曜日まで。時間は10時から13時まで。となります。

もちろん、正式な日程などはブログではご紹介できないのですが。

今回の企画は、試しみで開始した取り組みです。

ですので、ブログなどネットを通じて告知をしないこととしていました。

こちらも色々とやり方を学ばなければならないためです。

でも、先日来られた方がブログなどでアップしてくださったようなので、

西照寺としても、流すこととしました。

ただし、お試し期間なので、土曜日まで。10時から13時の間ということでご了解いただきたいと思っています。

今回の反省点なども踏まえ、次回への体制を整え、正式に再度行いますので、是非お越しください。


人生の土台


こんにちは 副住です。

人生いろいろありますね。

何かに一生懸命のめり込む時、

周りが見えなくなってしまう時、

結果がでなくて、凹む時、

人から言われて、立ち止まる時、

自分の進む方向性が解らなくなってしまう時、

色々とあります。

生きていれば、多々、このように悩む一時期ってあるのだろうと思うのです。

これらは人生の根本的な問いとなって、私を襲ってくるものです。

そんな時、人に言われてフラフラ揺れ動いてしまうものでしょうし、

自分を見失ってしまうものでしょう。

人生の土台がしっかりとしていない私達は、フラフラ揺れ動いてしまうもので

とても弱い存在ですね。

フラフラ揺れ動いてしまうのを、私は悪いとは思いません。

むしろ、当たり前だと思います。

揺れ動いていいのです。

私たちは、その場の状況や自身のおかれた環境によって、色々と揺れ動いてしまう

徹底しない存在なんです。だから弱いんです。

私は浄土真宗の教えを通して、このことを痛く教えられました。

そんな弱い私だからこそ、ちゃんと頼れるものがないと、人生が落ち着かないのです。

ちゃんと頼れるものこそ、仏様の教えなのです。

仏様の教えは真実と言われます。

真実ということは、フラフラしないで済むということ。

真実だからこそ、いつでも揺れ動かないのです。

でも、私たちの生きる世界は真実ではないから、フラフラ揺れ動いてしまう。

仕方がないのです。

だからこそ、仏様の教えを通すことで、私の生き様がフラフラしないものとなっていきます。

そうなることで、私の人生が落ち着いてくるのです。

もちろん、色々なことに影響を受け、活動をしても結果がでない、そんなことも多々あります。

苦しい時は当然あります。でも、だからといって揺れ動かないのです。

自分の進む方向性が見失われることなどありません。

進む道が、仮に苦労の連続だったとしても、その先に真実があるので、

迷うことがなくなります。

現代の環境はとても大変な時代ですから、揺れ動きそうになる方が増えてくるでしょう。

だからこそ、仏教は必要とされるはずです。

ここら辺が、仏教に生きるお坊さんと、そうでない方の一番の違いだと私は思います。

でひ、お坊さんに相談してみてください。


お墓の役割 その1


こんばんは 副住です。

新年を迎え、感じたことがあります。

それは、年末年始に多くの方々がお墓参りに来られ、

お墓を掃除したり、お供えしたり、家族親族一緒に来て

賑やかにお参りされたり・・・

やはり、お墓は故人と遺族がつながる場所。

人間は、死んで何も無くなるわけではないのです。

近年は、人間死んだら終わりなどと思う人や、

死んだら何も無くなるんだ!と思われる人も

増えてきたのかもしれません。わかりませんが。

でも、私から言わせれば、そんなはずはありません。

死んで何も無くなるなんてこと、あるわけありません。

そもそも、「無い」というのは、最初から「何も無い」状態

のことです。逆に「有る」というのは、最初から何かしらが「有る」

状態のことなのです。だから「無い」から「有る」に変化すること

はあり得ませんし

逆に「有る」から「無い」に変化することもありません。

何度もいいますが、「無い」というのは、最初から何にも「無い」こと

なのです。

見えないものから、見えるものへと変わっていくことはあり得ます。

逆に、見えるものから、見えないものへと変わっていくこともあります。

人間死んだら、今まで見える存在だったけれども、見えないものへと

変化していくのです。これは「無くなる」こととは違います。

その変化の過程で、私たちが見て確認できるのは「遺骨」なのです。

だから私たちは「遺骨」に、故人の全てを詰め込んで、大切にするのです。

「遺骨」が収まる「お墓」は、まさに故人そのものなのです。

だからこそ、お墓に足が向くのです。遺族で大切な日にお墓参りに来るのです。

故人とつながる場所こそが「お墓」なのです。

生前の時のように、会話ができるわけではない。

顔が見えるわけでもない。

でも、お墓があるから、故人を感じることができる。

お墓があるから、強くつながりを感じることができるのです。

故人は「思い出」ではありません。

故人は亡くなっても尚、生きている私たちと関係しているのです。

故人は過去のものではありません。現在も関係し続けているのです。

だって、故人がつないでくれた「命」を遺族が今生きているじゃありませんか。

換言すれば、故人の「命」を、今の私が生きているのです。

お墓はそのことを目にみえる形で表しているものなのです。

だからこそ、お墓は大切。

西照寺は、お墓を大切に考えているのです。


お寺のお正月


こんにちは 副住です。

お正月は、お墓参りに来られる方々も多いです。

もちろん、お寺にも。
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沢山、来ていただけるので嬉しいものです。

ご先祖様にも、新年の報告、あるいは、ご挨拶ということです。

家族・親族と一緒に笑いながらお墓にお参りになっています。

笑い声を聞くと、何だか嬉しくなりますね。

お寺には、年末年始、多くの方がお越しになります。

私達も、家とお寺と行ったり来たりしながら、三が日を過ごします。

以外に、TVは見れないし、出かけることもできないのですよ。

そういう意味では、お寺も大変なのです。(笑)


宗教的感性を磨く必要 (ご法話 話し手と聴き手のミスマッチ)


おはようございます。副住です。

昨日は成道会(ジョウドウエ)布教大会が築地本願寺にて行われました。
成道会とは、お釈迦様がお悟りをひらいた日とされる12月8日に開かれる集会。
成道とは「お悟りへの道が完成した」という解釈でいいと思います。
「お悟りへの道が完成した」12月8日に、皆で集って仏教のお話を聞く。これが成道会布教大会。

築地本願寺のご本堂にて、毎年(ほぼ12月8日に)開催されます。
時間帯は午前9時から午後15時すぎまで。
布教使(フキョウシ・・・お話をするお坊さん)さんが7名~8名登壇します。
時間帯が遅くなるにつれ、年長の布教使さんとなっていきます。

私は昨日、ご法話を聴きにお参りさせていただきました。
いずれも、有難いご法話を聴かせていただきました。

ただ、これは私の偏った見方ですが、どうしてもお話の内容と、それを聴いている方々の雰囲気がマッチしていない。
私は有難いお話だと思うけれど、会場(聴いている方は200~300人くらいいる)の雰囲気がシーンとしている。
寝ている方も数多くいる。
(当然、寝ていることが悪いというわけではないのです。寝られるほど、安心できるのですから、有難いことです。しかし、有難い話なのに、寝てしまう。なぜ?)
おおよそ、布教使さんご自身も感じておられることだと思うのですが、話し手(特に話の内容)と聴き手にミスマッチがおきている。
話し手は「仏様の有り難さ」をお話するのですが、聴き手はその内容についてこれない。
例えば、話し手が表現に用いる「仏様の光は・・・」「仏様のお慈悲は・・・」などの表現も、聴き手はついてこれない。
短気な聴き手だと「何言ってるのか、さっぱりわからない!これじゃあ、意味がない」と思われるかもしれません。
短気ではない人でも、話題についてこれなく、会場が暖かいと・・・zzz。寝てしまうことも頷けます。

だったら、もっと表現をわかりやすく簡単にすればいい!と思うのですが、解りづらくても、どうしても表現を変えない方が良いという世界もある。
ましてや、布教使がそれをする必要はない。(説明すると長くなるので、取り敢えずそういうことにしておいてください)と、これは私個人の考え方です。

私は、話し手と聴き手のミスマッチはどうしてできているのかと考えた時、それは聴き手の感性が脆弱になってきているのではないか?と思うようになっています。
これは、聴き手が悪いというわけではないのです。現代という時代、あるいは日本という場所の問題なのか?はわかりませんが、
取り敢えず、今後年代が下がるにつれて、その感性はますます脆弱となっていくような気がしています。

では、この感性とは何か?・・・おそらおく「認識不能(見たり触れたりできない)なはたらき」を察知する感性。そして、「認識不能なはたらきに想いを馳せる」感性。
難しいことを書いてしまいましたが、現代の私たちは見たり触れたりできる事象に対しては、「間違いない」と確信をもちます。これらはある種科学で証明できることです。
しかし、科学が及ばない世界。例えば、「お陰様」という世界。これは様々なはたらき(ご縁)が重なってできている世界であって、自分の認識を超えたもっと大きな世界を意味します。
これは現在の科学でも説明ができない世界でしょう。この大きな世界、換言すれば「認識不能なはたらき」を察知する感性が脆弱になってきているように感じます。
ましてや、「お陰様に想いを馳せる」感性(例えば、お陰様を人格化して、お陰様はどのような気持ちをもっているのだろうか?と考えること)などは、脆弱の極みにあるのかもしれません。

昔の日本であれば、「お陰様」に感謝ができる世界が、今よりももっと広がっていたような気がします。(何となくですが)
きっと「お陰様」がもっと表現として使われていたのではないかと思うのです。(数年前、20代の男性と「お陰様」の話をしたら、「お陰様って始めて聞きました」と言ってました)
もう若い人には、「お陰様」が通じなくなってきているのかもしれませんね。(年齢的に私と10歳くらいしか違わないのに、ショックを受けました)

私たち宗教者は、いわば、宗教的な感性を養っています。宗教的な環境にいるわけですから、嫌でも宗教的な感性を磨かねばなりません。
その感性がある程度養われた過程に、例えばお経の中に含まれてある宗教的な感性を汲み取ることが可能となります。
上記にあげた「仏様の光は・・・」「仏様のお慈悲は・・・」との表現は、昔から伝えられてきた宗教的感性の純化された表現形態です。
ですから、これを安易に換言しない方が良いのです。
だったらどうしたらいいのか?
答えは、現在の聴き手の感性を養生することです。宗教的な感性は宗教的な環境に身を置かねば養うことが難しいです。
仏教や浄土真宗の宗教的感性は、お寺で養うことがてっとり早いです。
ですから、各お寺で聴き手の宗教的感性を養生することが肝要です。
その上で布教使のお話が聴けるのだと思います。ここにミスマッチが解消できる可能性があるのだと思いました。

あと、このブログを見ているというお坊さんがけっこうおられるようです。これを見て、私の行動を把握するのはやめていただけますでしょうか?(笑)
このブログは一般の方が見てくださるようにとの思いで毎日綴っています。ですから、私の秘密や正直な気持ちとかも綴っています。