比企の地と慈光寺  比企に埋まっている宝物を掘り起こせ!


こんにちは 副住です。

3日は日曜日でしたが、比企青年会議所の例会がありました。

例会は、朝から夕方までの一日例会。

しかし日曜日だったので、私は午前中だけご法事に。

他のご法事はすべて住職にお願いし、そのままJCの例会に再び合流。

今回の例会は、「なろうぜ!比企マニア」というものです。

比企の特性をしって、自慢できることを深堀していく。

そんな例会でした。

比企といえば、比企一族(鎌倉時代の武士)が有名です。

特に比企の尼という方は、源頼朝の乳母であり、頼朝がまだ困窮していた頃、

20年にわたって、支え続けた方なのです。

ですから、源頼朝が鎌倉に幕府を開いた後、比企一族の幾人かは

鎌倉に呼ばれ、大きな屋敷を与えられていたのです。

源頼朝の奥様であった北条政子の実家である、北条家も当時は有力者。

比企一族に負けないよう、警戒していたようです。結果、比企家は北条家に滅ぼされてしまうのですが。

そのような関係からもわかるように、比企一族は鎌倉時代の当時とても有力でありました。

その比企家が活躍していた場所が、東松山の大谷という地であったと言われています。

そんな比企家と関係がある、大谷の宗吾寺さんを巡り、その後、高坂の正法寺さんに参ります。

正法寺さんは、北条政子の守り本尊があると言われているお寺なのです。

その後、小川の玉井屋さん(JCメンバーのお店)にて昼食をとりました。美味しかったですよ。

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その後、ときがわの慈光寺さんに。

慈光寺さんは、とても凄いお寺だったのです。

源頼朝が奥州藤原氏との戦勝祈願の為に、お参りされたお寺なのです。

つまり、源頼朝が頭を下げるお寺。源頼朝が認めたお寺。

戦で勝った頼朝は、慈光寺に大きな土地を寄進されました。

聞くところによると、西は毛呂山か坂戸あたりで東が鴻巣あたりだったそうです。
(たぶん、直線距離にして、20キロくらいか)

その領地にある、田畑は慈光寺に寄進してくださったのだそうです。

当時の慈光寺は、東の比叡山と言われるほど有名なお寺だったとのこと。それほど、有力なお寺だったのです。

格式高い慈光寺ですので、頼朝は何度も慈光寺にお参りになっています。

頼朝が、鎌倉から慈光寺に来るための通りが鎌倉街道であったとも言われるほど。

もちろん、「いざ鎌倉」ということでもありますから、それだけではないはずですが。

頼朝は、乳母の比企の尼を最大の支援者として、その一族に信頼を置いていました。

その一族が活躍していた当時、慈光寺は存在していたし、きちんとした歴史をもっていたので

格式も高かったのだと思います。

頼朝が幕府を開くことで、ますます慈光寺も格式が高くなっていったのです。

(もっとも、比企一族が北条家に滅ぼされてしまうので、その後、慈光寺も比企の地も衰退していくこととなるのですが)

さてさて、当時、慈光寺は東の比叡山と言われるほどのお寺だったので、お経の奉納も多かったそうです。

お経を奉納といっても、お経を書く紙がないといけません。

そうなのです。ここででてくるのが、東秩父と小川の和紙(細川紙)となるのです。

慈光寺さんの後、その流れで東秩父の和紙センターに行ってきました。

IMG_0044

和紙すきを、参加メンバー皆が体験させていただきました。

難しいんですよ。

当時の紙というものは、相当貴重でした。浄土真宗の宗祖である親鸞聖人も、紙を重宝した方です。

お経を書き残すには、紙が必要なのです。しかし、簡単に紙は手に入れられない環境だったのです。

今とは違うのです。ですから、親鸞聖人の書き残されたお経は、紙が張り合わせられて一枚にしていたり、

ツギハギだらけのお経となっています。

ですから和紙だなんて、超貴重なものだったはずです。

当時、細川和紙を支えていたのが、慈光寺だったわけなのです。

さてさて、和紙を見物した後は、最後の目的地、安岡正篤記念館に行ってきました。

安岡記念館は、比企一族とは時代が違います。安岡さんは明治から昭和にかけて活躍された偉人です。

安岡正篤

その安岡さんは、比企の地(嵐山町)に、日本農士学校を設立し、日本の復興の中心にしようと考えておられました。

日本農士学校

そんな凄い思想をもった学校を、なぜ当地に安岡は選んだのか? 私はずっと気になってました。

生まれ故郷でもなければ、なんの関係もなさそうなのです。

だからこそ、安岡の中に当地ならではの魅力があったはずだと思うのです。

安岡は、当地の魅力に気づいているからこそ、埋没している魅力を掘り起こる為のヒントが隠れているはず!と思うのです。

その魅力を引き出し、地域発展に繋げることこそ、本当の意味でのJC活動であるはずなのです。

そんなこともあって、私は今回の訪問を楽しみにしてました。

記念館の管理人さんに、色々と説明をしてもらう途中、私も質問をしてみました。

なぜ、安岡は当地を学校に選んだのでしょう?と。

すると、私の予想外というか、はっきりした理論的な説明が無駄な、縁とでも言うべき選定理由が明かされたのでした。

安岡ほどの偉人ですので、必ず明白な理由があったのだろう!と予想してましたが、そうではないのですね。

感性なのかもしれません。となると、当地の魅力には、理論的な説明が無駄な境地。しかし、本質的な魅力がある!という

ことになりますね。掘り起こすの大変すぎる!!!

さてさて、縁と言いましたが、この縁に鎌倉時代が関係していたのです。

日本農士学校の土地を選定している最中、当地を見に来た際、光る畠山重忠の像を見つけたそうです。

安岡氏は、畠山重忠を好意的に捉えていた為、導きだろうと受け止め、当地を日本農士学校の地に定めたのだそうです。

何とも、理論的ではない話です。

時に畠山重忠というのは、鎌倉時代の有力御家人なのです。

畠山重忠の本家は深谷市にあったのですが、嵐山町には別宅があったそうです。

鎌倉により近い(鎌倉街道が近い)という理由だったそうです。

畠山重忠の別宅の跡地に、像が建てられていたのだそうです。

何とも不思議なものですね。

というわけで、比企青年会議所の例会は17時をもって、無事大成功の中でおわりました。

とても勉強になりました。

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