カテゴリー別アーカイブ: 日記

わかりやすい仏教(10.無明③)


おはようございます。副住です。

一昨日の続きです。

よくよく考えてみると、おそらく、

「予定をたてますか?」と質問されたら、

頭で考えずに、何となく普段からの行動なので、

心からの返答をしてしまう。

それが、「予定をたてる」という返答になっているのでしょう。

なぜ生きていることが前提かというと、

煩悩のまま正直な心には、「死にたくない」という心があるので、

「死」を遠ざけるように、なるべく考えないような方向を

とらせるのです。

一方で「明日、生きていますか?」と聞かれると、

頭が反応して、「わからない」と答えてしまうのでは

ないかと思うのです。

ただし、頭で考えるだけで、

本当に「死ぬかもしれない」などという危機意識は、

当然そこにはありません。

つまり、先の質問は、煩悩のまま正直にだす答え。

次の質問は、頭で考えてだす答え。だから矛盾した答え

がでてきてしまう。そんなところだと思います。


わかりやすい仏教(9.無明②)


こんばんは 副住です。

東京がお盆期間の為、遅くなってしまいました。
(西照寺は東京にもご門徒さんが多くおられます)

さて、続きです。

昨日、二つの質問をしました。どうだったでしょうか? 

最初の質問ですが、多くの人は「予定をたてることがある」と

回答したんじゃないでしょうか?

そもそも人生で「予定をたてたことがない」などという人は

いないでしょう。どんな予定でも構いません。

何かしら予定をたてたことがあるんじゃないかと思います。

対して二番目の質問です。

多くの方が「生きている」あるいは「わからない」を選択した

のではないでしょうか?

因みに「生きている」と答えた人は、仮に今日、大震災が来た

としても「生きている」といえるでしょうか? 

明日になってみないと「生きている」かどうかは「わかならい」

と思いませんか。

そういう意味で、「わからない」を選択された人が多いように

思います。

では、ここで皆さんを困らせてみましょう。

なぜ、私たちは明日生きているか「わからない」と言うのに、

先の予定はたてるのでしょう?

「生きていた時の為に、予定をたてる!」と言い訳するような

人もいるでしょう。

であれば、予定をたてる時に、死ぬことも想定した予定を

たてていますか?

例えば、友人と旅行する予定をたてるとして、

「ごめん、旅行までに死んでしまったら行けないけど・・・

その場合はどうする?」なんて話、聞いたことありません。

私たちが予定をたてる時は、毎回生きていることが前提で

予定をたてているのです。

それなのに、「明日、生きているのか、わからない」と答える。

明日、生きているのかわからないのに、

平然と数か月先や数年先の予定はたててしまう。

言っていることとやっていることが伴っていませんね。

どういうことでしょうか。

因みに、私も皆さんと同じように答えてしまいます。


わかりやすい仏教(8.無明 ①)


こんにちは 副住です。

さて、仏教という鏡を見ないで、煩悩のまま正直にいると、

自分が誤っている見方をしているということにも気づけないのです。

当然ですね。

煩悩のまま正直に生きている自分しか知らないわけだから、

それが誤りなどとは到底思えないわけです。

しかし、仏教では煩悩のまま正直にいることは、

実は真実が見えないようなあり方なのだよ!

と指摘してくれるのです。

つまり、間違った見方をしてしまう人生なのだよ!

というのです。間違った見方を無明と言います。

さて、皆さんが本当に無明であるのか、

チェックしてみましょうか。

以下に質問をしますので、素直に答えてください。

皆さんは、日々の生活の中で、何かしら予定などをたてますか?

(例えば、旅行の計画をたてたり、
 先の食事について考えたり、何でもいいです)

□ 予定をたてることがある
□ 予定はたてたことがない。いつもその場で決める

では次の質問です。

皆さんは、明日、生きていますか?

□ 生きている。
□ わからない。
□ 生きていない。

続きは明日のブログで。


わかりやすい仏教(7.仏教)


おはようございます。副住です。

自己中心性の心は、ある意味、孤立していこうとする方向へと、

私を動かしていきます。

不思議なことに、全体的な繋がりに目を向ける方向には展開しないのです。

むしろ、孤立を求めていく方向へと展開していきます。

究極的には、自分さえよければ!という方向へと進んでいきます。

自分優先主義は、最近の傾向ですね。

現在のアメリカ大統領は、よく「アメリカンファースト」と

主張していますが、あれこそ、煩悩のままの姿。煩悩に正直な姿。

ただ、悪いところは、煩悩の欠点を知らないところにあります。

もっと言うと、煩悩の誤りに気づこうともできないところにあるのです。

それはつまり、情けない状況ということです。

ただし、情けない状況にいることさえ気づけない状態なのです。

これは煩悩がそうさせているのであって、

そもそも人間の特徴なのかもしれません。

(そういう意味では人間は生悪説かもしれませんね)

例えるならば、鏡を見たことのない人が、汚れた顔をしていて、

平然と多くの人の前で目立とうとする。

他の人からは「汚い顔しているな!」と思われているのに、

自分では気づけない。そりゃそうです。鏡を見たことがないのだから、

自分の顔の汚れに気づけない。また、気づこうともできないのです。

これと一緒。

だけど、他人から指摘されたり、鏡を見せられたりしたら、

気づく場合もあります。

気づいたら、きっと汚れを落とそうとするでしょうね。

汚れていた顔の自分が、恥ずかしいと思えるでしょう。

これと同じで、煩悩の愚かさは、煩悩の心を照らしてくれる鏡

で確認しないと気づけないのです。

その心を照らしてくれる鏡こそが、仏教という教えなのです。

仏教を学ぶ(落とし込む)とは、自分の持っている煩悩の心の

愚かさなどを、自分で確認することとなるのです。

人から言われるのではなく、自分で確認をするわけですから、

言い訳できない。

そういう意味では、自分の嫌な面を見ることとなります。


わかりやすい仏教(6.自他)


こんにちは 副住です。

本来は全体的に繋がっているから、自も他もないはずなのです。

全部が関係しあいながら、相互作用し繋がっている。

本来は私だって、空気や人々、あるいは地球や宇宙規模の様々な

ものによって、支えられて存在できているのです。

そういう意味では、繋がりを排除した「私」なんてどこにもないのです。

でも私の心の根源にある自己中心性の心が勘違いをおこし、

「自分」を作り出すのです。

「自分」を作ることで、自分以外を「他」と認識し、

区別をするようになってしまいます。

さらに悪いことに、自己中心性の心は「他」よりも

「自分」をなぜだか優先したいと思うようになっているのです。


わかりやすい仏教(5.分別)


こんにちは 副住です。

さてさて、自己中心性の中でも、核となっているのは

「自分」です。

つまり「自分」の事を自分と思う心のことです。

自分とは「自ら分ける」と漢字で書きます。

つまり、全体から「自を(ら)分ける」のです。

仏教では、全てのものは、繋がって(支え合って)いる

と考えます。仏教と言わなくても、考えてみればわかることです。

分かりやすいように狭い範囲で具体的に綴ってみましょう。

例えば、家族。両親は私を育ててくれましたし、

家族は私を支えてくれます。友人もそうですね。

楽しい時間をくれたり、時には成長を助けてくれます。

違う方面で考えると、私は空気を吸わないと生きていけません。

空気は私の命を支えてくれる何より大事なものです。

あるいは水や食料も同じですね。

もっと大きく考えると、太陽や地球だってそうです。

太陽の引力によって、地球が太陽と程よい距離感(私たちにとって)

を保っており、そのお陰で、私は太陽の適度な温もりを感じられる。

だから生きていけます。

また、地球の引力があるから、私は今のように動くことができるのです。

その他にも、地球の裏側にいるであろう、私の知らない人だって、

地球規模や歴史的に考えれば、何かしらで繋がっているのです。

そう考えると、私は色々な繋がりの中に存在しているのです。

色々な支えによって、存在ができているということです。

つまり、全体的な相互作用の中で私は存在しているにも関わらず、

全体の中から「自を分け」ようとする心が、私の根源にはあるのです。

本来全部(宇宙レベル)が繋がっているにも関わらず、

私の根源にある自己中心性の心が、全体的な繋がりを見ようとしないで、

「自ら分け」孤立していこうとするのです。

ここに必然的に「自分」と「他」(自分以外のもの)と区別しようとする心

がでてきてしまうのです。この区別を分別(フンベツ)と呼びます。


2018 西照寺子ども祭り


おはようございます。副住です。

2018 西照寺子ども祭りが、今月22日(日)に開催されます。

チラシ写真を載せますので、どうぞお越しください。

駐車場は無料です。

ただし、例年、西照寺の駐車場だけでは入りきらず

昨年同様に、近隣のクリニック様より臨時駐車場をお借りし

用意しております。

臨時駐車場からは、送迎バスがありますので、そちらを

ご利用ください。


わかりやすい仏教(4.煩悩)


おはようございます。副住です。

さて、「苦しみの根本」となる自己中心性は

やっかいで、色々な問題を含んでいます。

例えば、執着する心も、自己中心性の一部です。

この執着(煩悩(ボンノウともいいます))する心が様々な欲求

をもたらすのです。

執着する心に理屈などはありません。

充実した生活を送りたい!生きがいが欲しい!

遣り甲斐のある仕事を見つけたい!健康で長生きしたい!

楽をしたい!お金持ちになりたい!良い家に住みたい!

良いパートナーと出会いたい。結婚したい!恋愛したい!

何か美味しいものを食べたい!旅行がしたい!良い学校に進学したい!

などなど、執着する心を通して、色々な欲求として湧いてきます。

いずれも何となく心に湧いてくるので、

そこに理屈などはないのです。だから厄介なのです。

つまり、執着や欲求が理屈から生まれてくるのであれば、

執着や欲求をコントロールすることができます。

しかし、実際はそうではないから厄介なのです。

執着や欲求はコントロールができない。

しかも執着や欲求は、自己中心性と強く関係している。

まるで自己中心性の一部のように。


わかりやすい仏教(3.我)


おはようございます。副住です。

「思い通りにしたい」という欲求に対し、

そうならない現実にであった時、苦しみがやってきます。

では、そもそもなぜ私たちは「思い通りにしたい」と

思うのでしょう?

あるいは、「思い通りにしたい」と思う心の奥底には

まだ何かあるのでしょうか?

普段の生活で、上記のようなことを考えている人は

少ないでしょう。

そこに疑問さえ持ちえないことがほとんどかもしれませんね。

でもお釈迦様は、そこまで見つめたのです。

そして「思い通りにしたい」と思う心の奥底には、自己中心性が

あるといわれたわけです。

つまり、「思い通りにしたい」と思うのは自分ですね。

だから「自分の思い通りにしたい」ということです。

ここに「思い通りにしたい」と思う心の根本に、自己中心性が

あるというのです。

この自己中心性を「我」(ガ)と呼びます。

私たち人間(おそらく他の動物だって)は、皆「我」をもってい

ると思います。
(私は他人のことはわからないので、推察して言ってます)

ですから、「自分の思い通り」にならない時に、苦しみを感じる

のは「自分」となるわけです。

もっと極端に言えば、苦しみは「自分」が作り出しているとも
言えるわけです。

(つまり、自分が「思い通りにしたい」という欲求を作るから、

そうならない場合に苦しみが起こる。だから、自分で苦しみの

原因を作っている)


わかりやすい仏教(2.我欲)


こんにちは 副住です。

Uさん、Kちゃん、昨日はありがとうございました。

最近、ブログがつまらない!と言わないように。(笑)

さてさて、さらにつまらなくしてあげましょう。

昨日の続き。

仏教には、苦しみの根本を解決する目的があるのです。

苦しみの根本って何???

つまり、苦しみはどうして起こるのか?ということです。

これを探さないといけません。

苦しみはどうして起こるのか?が明らかになると、

苦しみの根本がみえてくるのです。

さて、では質問です。

私たちはどのような時に苦しみを感じるのでしょうか?

答え

自分の思い通りにならない時です。

自分の思い通りにならない時に、苦しみを感じるのです。

そう考えると、苦しみの根本には「思い通りにしたい」

という欲があることがわかりますね。

私の欲なので、専門用語で「我欲(ガヨク)」といいます。

この欲こそが、苦しみを生み出す原因ともなるのです。

お釈迦様は、そのことを見出したのです。