カテゴリー別アーカイブ: 日記

体調不良


おはようございます。副住です。

体調不良で寝込んでいました。

まだ、回復しておりませんが。

実は、日曜日の夕刻から調子を崩し、

月曜日の朝、体温を計ったら8度5分。

ご法事を勤め、夕刻、病院へ。

先月だったか?、築地本願寺で

インフルエンザの予防接種をしていたし、

おかしいな。と思いながら、診てもらいました。

すると、熱がでて12時間経過しないと、

検査しても、出ない場合があるから!

明日まで熱が下がらなければ、もう一度

来院するように!と言われ、解熱の薬を

処方していただきました。

昨日は、7度前半まで下がったので、来院しませんでした。

今朝は、解熱しました。

しかし、身体全体に倦怠感があります。

これまで経験しなかったような、力が入らないというのか

特徴としては、足の裏が痛いというのか、足つぼして

刺激してほしいような感じというのか。

また、背中や腕など、特に筋肉が。。。

おそらく、疲労がたまりすぎたのだろうと理解してます。

毎年、年末から元旦にかけて、調子を崩すのですが、

そこには、共通点があって、仕事が一区切りというか、

全部終わって、ホッとするタイミングなのです。

実は今年、ホッとするタイミングが早まって、今、出て

しまいました。

築地本願寺の報恩講期間ではあるのですが。

しかし今年、報恩講期間に私の役目が皆無であり、

その意味でホッとしてしまったのです。

そしたら、大した風邪でもないはずなのに、それが

引き金となって、おそらく身体が悲鳴をあげたの

だろうと思います。

こうなると、一週間ほど復調しないのです。

本当は、薬で解熱するのではなく、自然と解熱する

のを待った方が、きっと身体にとってはいいのだと

思います。

今年は、インフルの可能性もあると考え、薬を飲んで解熱

してしまいましたが、身体の悲鳴は続きます。

疲れが外に出た方がいいので、辛いけど、我慢我慢。

しかし、ダルイのなんのって。

 

 


お通夜に参列


おはようございます。副住です。

今日は、春日部市にある福浄寺さまのご住職の

お通夜が営まれます。

西照寺から住職と私がお参りさせていただく予定です。

私もお世話になった福浄寺さまのご住職。

とても明るいかたで、楽しいご住職でした。

いつもニコニコされ、笑い声が絶えない姿を思い出します。

私の父である西照寺住職よりも、2歳年が下だったそうです。

そう考えると、早いな。と、無明な私は思ってしまいます。

私は、今年の2月に福浄寺さまにご法話に伺った際、お会いした

のが、最後でした。

今日は、先生を偲びながら、先生の話をしたいと思いますし、

お浄土に往かれたことを、式を通じて共有させていただこうと

思っています。


寂しさを感じるとは、このようなものなのですね。


こんにちは 副住です。

今日は久しぶりに、本格的な雨です。

一段と寒くなっていくのでしょうね。

さて、今日は法務を勤めさせていただき、

明日は埼玉組の福浄寺さま(春日部)のご住職が先月末に

ご往生されたので、お通夜が営まれます。

私も大変お世話になりました。毎年2月に常例法座に招いて

いただいていたのです。

西照寺の住職も、同世代だったので、非常に残念がっています。

住職と同世代の埼玉組の仲間が、徐々にご往生されていくので、

とても寂しく感じます。

明日は、住職と私でお参りをさせていただこうと思います。

 


越谷市へ


おはようございます。副住です。

今日は越谷市の光善寺さまの報恩講に

お参りさせていただきます。

東松山市ではスリーデーマーチが開催

されており、最終日だと思いますが、

昨日とは異なり、寒い一日となりそうです。

雨が降らなければいいのですがね。

さてさて、頑張ってきます。

 


文化財鑑賞会(本物を体感できる会)


おはようございます。副住です。

昨日で連載は終わりです。

今日は、2018 秋 西照寺文化財鑑賞会です。

昨日に続いて、今日が文化の日なのでメインとなります。

「本物」に体感できる場所として、開催しておりますので、

是非、お越しいただければと思います。

寄贈者の願いに応える為、今後、連載した内容を意識し

新たに出直す所存です。

西照寺文化財鑑賞会は本日の10時から14時まで。

次は、5月の下旬か、6月上旬に開催予定です。

 

 


本物とは何か(本物を体感する機会! 西照寺文化財鑑賞会)


おはようございます。副住です。

私がなぜ、上記のような(本物とは何か)ということを言い出し

たのかと言えば、この2~3年の間に、ある方から託された任務

が影響している。その方はご高齢で、自身がこれまで大切にして

きた「本物」を後世に伝えて欲しいと、西照寺に「本物」を託

(寄贈)してくださっている。

その方との約束で、私が管理者となり、寄贈された「本物」に、

人々が直接触れられる機会を年間2回開催することとなったの

だ。それが「西照寺文化財鑑賞会」である。

ただし、この2~3年間、私は毎月鎌倉まで通い、その方が西照

寺に託した「文化財鑑賞会を通して後世に伝えたいこと」を聞い

てきたつもりであったが、これまで中々その本意を理解できずに

きたのである。

実は、その方が「後世に伝えたいこと」の内容が、私の中で判明

したのが、つい先日であったのだ。これまで2~3年の間、何度

も鎌倉に通い、また手紙のやり取りを通じながら、私なりに理解

しようとしてきたのだが、中々解らなかった。それはそうだろ

う。私自身が「本物」ということを知らなかったのだから。

その方は、「文化財鑑賞会」を通じて、多くの方に「本物」に触

れる場をつくり、「本物」を体感することで、後世の人々に夢や

癒しを与えて欲しいと願っていたのだ。誠に恥ずかしい話である

が、私はようやくそのことが先日理解できたのだ。

これまで「西照寺文化財鑑賞会」は、5回ほど開催してきたが、

開催に際して私が意識していた部分が、その方の意図とは異なっ

ていたこともあり、誠に軸がズレた会となってしまっていたので

ある。ここで、軌道修正を行い、今後は「本物」を知りたい方だ

けに来ていただきたいと思っている。もちろん、少しでも興味が

あれば来ていただければと思っている。ただし、大変貴重な「本

物」に直接触れられる会であるから、真剣に見ていただきたい。

私も管理者として、その方の想いを理解できた今、「本物」を

理解できて来た段階にあるのだろう。ここに、それらを少し紹介

していければと思い、以後、当ブログで「本物」をご紹介してみ

たい。「本物」はブログで見るだけでは伝わらない。自分の手に

取って、その感触に触れ、体感するしかないのである。「西照寺

文化財鑑賞会」は、年間2回定期的に開催をする約束なので、是

非、その際足を運んで欲しいと思う。もちろん、都合がつかなけ

れば、西照寺に問い合わせをして欲しい。こちらの都合があえ

ば、例外的にその機会を提供できればと考えている。それが寄贈

者の願いであるからだ。

 


本物とは何か(その8)


こんにちは 副住です。

さて、話を日本刀に戻そう。美術館や博物館にあるケースに入っ

たままの日本刀は、鑑賞者自身が手にとって触れることができな

いので、光の当て加減など、見る者側の都合で扱えない。

直接に触れられなければ、刃紋や地肌そのものが見えないし、若

干見えたとしても、それぞれの日本刀の刃紋や地肌の見え方に違

いがあることにも気づけない。

現代の文化財は保存を目的とする為、国宝級や文化財級の日本刀

はケースに入れられて、実際に手にして気軽に見ることができ

る環境にはないのである。

だから専門家であっても、自身の専門分野の「本物」というも

のが何かがわからないという事態となってしまっているのであ

る。当然素人にとっては、尚の事であろう。

 

もはや、このような環境の中では、「本物を見分ける目」を養う

ことは難しいのである。

本物を知らない(知ることができない)ということは、何が良い

もので、何が悪いものなのか?ということがわからない、という

ことなのである。これでは全く面白くない。そもそも良し悪しが

わからなければ、追求心や探求心、向上心がでてこないだろう。

だからこそ夢など描きづらいことに繋がってしまう。

 

さて、これら骨董品の例えによって「本物」についての内容を

綴ってきたが、ここで話を軸に戻してみよう。「あの人は本物

だ」とか「あの会社は本物だ」などと言われる「本物」とは何

か?ということであった。

この場合の「本物」が意図する内容はおそらく【「その人その

もの」が、信念を持ちながら、無駄なことをせず、やらねばなら

ないことを手間暇かけ、きちんと実行している人生を歩んでいる

人(極まっている人)】と言うことができるだろう。それは会社

であっても同じである。そのような人や会社と触れ合うことがで

きた時、「本物」ということが、こちら側に伝わってくるのであ

る。一度でも「本物の人」と出会った実感がある人ならば、「本

物ではない人(偽物?)」もすぐに見分けられるだろう。人に対

しても「本物」と、「そうでない者」の判別基準ができることと

なる。きっと、「本物の人」を知った人であるならば、「本物」

への憧れができるだろう。それが「本物」の魅力であり、凄さな

のだ。ここに向上心や夢がでてくるのではないか。「本物」は

様々な分野にある。人であったり、会社であったり、陶器であっ

たり、絵画であったり、料理であったり、武具であったり、その

他いろいろある。それぞれの「本物」を体感することが大事であ

る。できれば、多くの分野の多くの「本物」を体感すべきであ

る。それらを体感できた時、「本物」の凄さに触発され、興味が

湧いてくる。その先に、探求心や憧れ、夢などが湧いてくるので

ある。つまり、換言すればワクワク感が生まれてくるのだ。面白

いと思える気持ちが生まれてくる。夢ができる。向上心がでてく

る。追求心・探求心が深まっていく。良いことだらけだ。だから

こそ、「本物」を体感できる機会が大事だと、今、私は言ってい

るのだ。できれば、幼少期とか、子どもの時代に、そんな場を体

感して欲しいと思う。もちろん、大人になってからでも構わな

い。でも幼少期の感受性は凄いし、何よりも大人よりも未来があ

る。だからこそ、子ども達にこそ「本物」を体感する場を提供す

べきなのだ。


本物とは何か(その7)


おはようございます。副住です。

因みに、「本物には無駄がない」ということ、また「本物を体感

することの重要性」について、もう一つ興味深いブログを発見し

たので、こちらもご紹介させていただきたい。

片岡徹也さんのブログである。

本物って地味?本物と偽物の違いは何か?

ここでも、申し訳ないが、関連個所の一文を引用させていただき

たい。

「本物と偽物の違いってなんだと思いますか?

先日、コンサルを受けていただいているクライアントさんと話に

なって、その方が本物って意外と 地味ですよね~、と。

これには僕も同意見で、ですよね~ってなりました。本物って地

味です。

それにもいろんな理由があると思うんだけど、まず第一に触れ

て、体感してみれば分かるものなので、過剰な演出だったり、過

度な装飾が必要ないってことがあります。

触れる回数や期間が増えれば増えるほど、分かりやすくなります

が、敏感な方、アンテナが立っている方はパッとみれば分かりま

す。分からない人がいても、本物は本物として自信があるという

か、分からない人のことに氣を使う必要がないので、あ~、そう

ですかふーん、ってな感じになります。

それに比べて、偽物っていうのは、人を惹きつけなければいけな

いので、得てして過剰な演出に なりがちです。ゴージャスな感じ

をあえて醸し出したり、自分のキャパを超えるモノゴトを引き合

いに出したりして、何とかして興味をひこうとしてきます。

その結果として、キャパ超えしちゃうもんだし、装ってばかりい

ると疲弊もしちゃうんで、続けているとどこかでぶっ倒れます。

これは人に限らず。会社や何かの製品も結局、同じです。」

との内容である。とても興味深い。

ここで、片岡さんが指摘する「本物は地味」との見解。私も同感

する部分がある。解説するならば、私が綴ってきたように、「本

物」は、制作する工程に「無駄がない」からこそ、片岡さんが指

摘している「過剰な演出だったり、過度な装飾が必要ない」ので

ある。片岡さんも、「本物」は「まず第一に触れて、体感してみ

れば分かるもの」と指摘される。触れて体感することが大事なの

である。


本物とは何か(その6)


こんばんは 副住です。

まさに、これと同じような内容を、以前私は、現代の日本刀刀匠

の重鎮である、とある師匠を訪ねた際に聞いたことがある。

「昔(師匠の幼少期)は、刀や文化に関する色々な勉強会が色ん

な場所で開かれていた。その時に、良い刀とは・・・良い物と

は・・・など実物を見せてもらって、教えてもらった。でもいつ

の間にか、そんな勉強会は無くなってしまった。だから今頃の専

門家と言われる人でも、物を知らない。僕からしたら、どうし

て?と思うような刀が評価されてしまう。僕には全く理解ができ

ない。(専門家は)勉強してないから可笑しな物を評価してしま

い、結果として間違った物が世間で良い物として広まってしま

う」との内容であった。

刀匠の仰るように、現代では、専門家と呼ばれる人であって

も、本物を見分ける目を持っていないと言うのだ。その背景に

は、本物を知る(体感する)環境がないから。野見山氏が指摘さ

れる「本物の善さを身近に触れるような場や機会がない」という

のは、刀匠の指摘とまさに同じなのである。因みに、「美術館や

博物館に行けば、素晴らしい日本刀が展示されているじゃない

か! それが本物に触れる機会なんじゃないの!?」との反論も

あると思うが、それではダメなのだ。何故かと言えば、美術館や

博物館の展示品はケースに入っているので触れられない。本物を

知る(体感する)環境というのは、自分の手に取ってじっくりと

見ること、本物そのものを体感することでないといけないから

だ。例えば、日本刀などは、刃に対する光の当て方(角度)に

よって、見え方が変わってくる。刃紋(ハモン)や地肌(ジハ

ダ)の見え方が変わってくるのだ。微妙は角度の変化や、光の当

て方によって、じっくり見れば見るほど、さっきまで見えなかっ

たような表情を見せてくれるのである。その経験の中から、「ど

うしてこんな刃紋や地肌となるのだろうか?」など、作成の工程

が気になったり、原材料について関心がでてきたりするのであ

る。そこにこそ、野見山氏が指摘する「本来の工程」「手間暇か

ける工程」が見えてくるのである。ここが見えることで、それが

本物なのかどうか?が判ってくるのだ。素晴らしいもの(日本刀

に限らず)は、原材料や工程に手抜きがない。手抜きがないどこ

ろか、極まっている。それはつまり、すべてにおいて無駄なこと

がない、とも言い換えられる。時に偶然でなければできないと思

われるような職人の凄みを感じることさえある。これらは、実際

に物を手に取って、じっくりと触れながら体感することでしか、

解り得ないのだ。


本物とは何か(その5)


こんにちは 副住です。

ここまでくると「本物とは何か」との疑問は、本物に触れること

によって、体感するものであると説明できるだろう。だからこ

そ、「本物」に触れたことがない人にとって、「本物とは何か」

との疑問は永遠に解決できない疑問となる。では、本物に触れる

とはどういうことか?

ここで、興味深いブログを見つけたので、引用してみたいと思

う。出処は野見山広明さんのブログである。ご紹介したい。

野見山氏のブログ

ここでは、大変申し訳ないが、当ブログと関連が深いので引用さ

せていただきたい。(以下、野見山氏のブログの抜粋)

「現在は、本物を見分ける目というものが失われてきています。例えば、売られているほとんどのものが大量生産大量消費するために用いられていますから古来からの商品では採算が合わず値段を安く抑えるために効率を優先されて製作されていきますから本来の工程を経ていません。この工程という順序や段階を経ないということはどこか手間暇を抜いたということです。しかしこの手間暇こそ本物かどうかの大切な見分けどころになります。

それは食べ物でも生活用品でも、または何かしらの営業においても同じです。例えば、漬物は合成香料などで味付けし漬けることもなく、お酒でもアルコールを添加して発酵させることもなく、時間がかかるものはほとんど排除されています。他にも生活用品でいえば先日の畳や障子、木材などもプラスチックで機械で大量につくられます。

見た目さえ似ていれば安い方がいいという考え方の消費者が増えれば増えるほど、本物が伝わらなくなっていくものです。なぜなら本物は高くて不便、価値がないと思われるようになるからです。すでに原材料が少ない上に、昔は職人たちの道具はすべて繋がって循環していましたからそのひとつが失われると周りも一緒に消失します。

例えば、藁は農家がお米を作った後にその藁を用いて畳や屋根、草履に草鞋、米俵にしめ縄などをつくります。他にも竹を取ればそこからあらゆる製品の職人たちに流通します。今ではプラスチックで竹も藁も代用されますからそれらの職人たちには原材料が届きません。こうやって次第に本物であったものが失われていきます。

そして仕方がないからと原材料を変えてしまったり、それまでの製作技術を壊してしまっていたらそれはもう本物とは呼べません。しかし本物にこだわり高価になりすぎてもそれは金額が膨大で購入することができません。こうやって古来からのものは失われますがそれは消費する側が改革していくしかないように私は思います。

もしも消費する側が、こちらの方がいいと大多数の人たちが購入するようになればまたかつてのような職人たちの仕事が発展していきます。そのためにはかつての本物の善さを身近に触れるような場や機会が増えなければなりません。今のようにどこにいったら本物に出会えるかわからないような市場ではなかなか触れる機会がありません。

伝統や文化というものは、長い年月をかけて培われてきたものですからそれを伝承している人も今は急激に減少していますからいよいよ出会う機会が薄れています。お金に早くしようと結果主義で工程を排除していくというのは、偽物を大量に作り出すということと同じです。

子どもたちのことを思えば、何が本来だったか、何が本物であるかを知ることはその工程や順序、段階を体験する場、または素材や原料が循環するプロセスを観る場が必要だと感じます。その中にある徳を見極める力を育成していかなければなりません。」

との内容である。非常にわかりやすいと思う。

明日は、この内容を私なりに紐解いてみたいと思う。