カテゴリー別アーカイブ: 法話

西照寺 中国の方との勉強会 開催してます


こんばんは 副住です。

西照寺では、法話会を毎月第二土曜日に行っています。

2年ほど前だったでしょうか、忘れてしまいましたが、その法話会に中国出身のDさんが来られました。
(法話会は、誰にでも開放されているので、どなたでもお越しいただけますが、なかなか新しい人は来ません(笑))

それなのにDさんは、突然様子見に来られたのです。入りづらかったでしょうね(笑)

私は、初めDさんが中国の方と気づかずにいましたが、色々お話していると中国の方だとわかりました。

その後、しばらく法話会に来なかったのですが、昨年末くらいに、Dさんは再びお母様を連れて

法話会に来てくださいました。

お母様は中国の方。日本語はわかりません。

何故?日本語わからないのに法話会に???と思いながら、事情をDさんに聞いてみました。

Dさんは日本語が上手でペラペラ。日本人の旦那様と生活をされています。

Dさんのお母様は中国で生活されてましたが、連れ合いを亡くし、娘と共に日本で生活をすることになったようです。

Dさんのお母様は、中国で浄土教を信仰し、熱心な信者さんということでした。

西照寺では、浄土真宗本願寺派と看板がでており、法話会の案内も掲示板で掲げています。

Dさんは、お母様を日本に連れてくる前に、その看板をみて、「浄土」と書いてあるからお母さんの信仰と同じだ!と

思われて、最初に法話会の様子を見に来たようです。

その後、お母様を日本に連れてこられたので、再び訪ねてこられたのです。

Dさんを通訳に介しお母様と話していると、お母様の中国での生活スタイルは月に一度、浄土の教えの勉強会があったようです。

その勉強会に信者さんが参加をし、念仏の教えを確かめていく。お母様はこれが一番大切なことだった。と言われました。

それが文化も言葉も違う異国にくることで、失われることを大層不安に思っている。とのことでした。

Dさんもお母さんの「生きがい」を求めて、たまたま西照寺に来られたわけです。

そんな想いを聞かされたら、「どげんかせんといかん!」と思うでしょ。

もちろん、月に一度の法話会に来てくださいと言いたいけれど、言葉がわからない。

そこで、個人的に法話会とは別に、勉強会をしましょう!ということで、

数ヶ月前から月に一度、勉強会を始めました。

今日も行ってきました。

毎回3時間前後かかります。

今日は、Dさんのお母さんが中国で学んでいたという、お経を頂戴してきました。

先月末に中国に帰国され、私のために持ってきてくれたのです。

IMG_1250

凄いですね。初めて見るお経です。

浄土の教えでは「無量寿経」というお経が有名ですが、もともとがインドの言葉で書かれたものです。

それを中国語に翻訳したものが現在は5種類残っています。

その5種類は私も知っているのですが、その5種類をある方が新しく纏めあげたお経が写真のお経というのです。

ですから、私も初めて見るものです。

内容を見てみると、全部は読んでません(今の中国語だし、わからないところも多々ある)が、共通箇所がいくつもあります。

法蔵菩薩や48願も同じです。ですから、後期無量寿経の系譜にあたるのでしょうね。

現在の中国にも、浄土教が伝わっていて、熱心な信者さんが多いそうです。

他力や念仏・信心など、Dさんのお母さんは理解されています。共通点は多そうです。



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直葬依頼 直葬の問題点 葬儀を見直そう 葬儀の意味 


こんにちは 副住です。

今日は朝から、西照寺の別院、(通称、新東松山斎場)の管理です。
8時前にご葬儀社さんが来られるとのことだったので、私は7時すぎに入りました。

今回は、霊安室にご安置されたご遺体を、そのまま隣の火葬場に移すという形の直葬でした。
霊安室を開けるため、管理に入る必要があったのです。

最初にご葬儀社さんが到着され、ご遺体を確認し、お別れの準備をされていました。
その後、30分後くらいにご遺族の方が到着され、霊安室に。
柩をあけて、ご遺族がお別れをされます。(花入れとはではなく、合掌したり、顔を見たり)
おおよそ5分から10分くらいでしょうか。
柩に蓋をして、霊柩車に乗せられます。
(隣が火葬場ですが、少しでも公道にでれば、霊柩車が必要となります)

そのまま火葬場に向かわれました。

あとで、葬儀社さんにお尋ねしたら、最近、東京では直葬が増えているそうです。
東松山は東京から距離もあるので、事情が違うそうですが、それでも今回のように直葬が確認されます。
最近、都市部では直葬が増えているようですし、もう少しすれば全国でも一定程度は確認されるようになってくるかもしれません。

色々な事情があるので、一概には言えないのでしょうが、私は直葬に絶対反対の立場です。
儀式はそれなりの意味があります(これをしっかり伝えられない僧侶にも問題はあるのでしょうが)。
もちろん葬儀にお金をかけろと言っているのではありません。
そうではなくて、儀式をしっかりと踏まえた上で故人を見送ることが、とっても、とっても大切なのです。
葬儀という儀式はお別れの儀式ではありません。
そうではなくて、故人が仏様の世界に往かれたことを皆で共有し、仏様の世界に往かれた故人と遺族とが、新たな出会いを築く為の儀式なのです。
もちろん、葬儀には悲しみもありますが、一方で新しい関係を築く為の儀式ですから、葬儀を契機に、遺族には以後やらねばならない義務が生じるのです。
例えば、日々のお仏壇参りなどの行為です。
悲しみの中、その行為に身を任せることによって、新しい世界が遺族の心の中に切り開かれてくるのです。

しかし、直葬は上記作業をすべて省くのです。
故人との新しい出会いの契機も築かないし、やらねばならない義務も生じません。
ただ、故人と別れるだけ。まさに告別式。(これは葬儀ではありません)
そこには、故人を忘れていく世界しか残りません。あるいは思い出としていく世界しか残りません。
その道をすすめば、「死んだら終わり」という世界観が切り開かれてきそうで心配です。

日本人はそうではありません。
昔から先人を敬っていく世界観が築かれてきました。葬儀はその中心にあったものです。
しかし、段々と葬儀の意味が伝わらなくなり・・・葬儀が告別式化していき・・・挙句、「単なるお別れだったら形式ばった儀式なんて必要ないじゃん」。
と考える人が増えても、不思議ではありません。理解できます。
しかし、本質はそうではない。葬儀はお別れを告げるだけの式ではない。むしろ逆。葬儀は故人(仏様の世界に往かれた故人)との出会いを築く儀式。
「死んだらそれで終わり」という世界ではない。
「死んでも終わらない世界」と遺族の出会いが大切。それが葬儀の本質。
その世界を表したのがお仏壇だったりするのです。だからその後のお仏壇をお参りする生活も大事。
(ここを僧侶が整えていく、遺族を道に乗っけてあげる。それが僧侶の大切な役目の1つだったりすると思う)

直葬をすることで、「新たな出会い」を築かない・・・その果てはお仏壇も必要なくなる世界を生きていくことと繋がります。
お仏壇の代わりに、「故人の写真などを飾るスペースをつくればいいや」となるでしょう。
そこに手を合わせたところで、過去の思い出の意味しかありません。
思い出は個々人によって違うので、故人を知らない世代が生まれてくれば、お参りはしなくなるでしょう。
それではダメ。そのような世界を生きていってはいけません。

そうではなく、先人が往かれた世界。そんな世界と関係を築くことで、仏様を敬い、お参りする世界が開かれてくるのです。
そこには、「仏様は私たちをみていてくれる」。「仏様が悲しむようなことをしてはいけない」。などと人生の規律が生まれてきます。
その世界を私たちが歩むことで、故人を知らない世代が生まれてきても、仏様をお参りする人間が育っていくのです。

安易な考えで直葬をしてはいけません。文化が崩壊することに繋がるから。
文化の崩壊に繋がれば、「誰も見てなきゃ何してもいいや!」と思う人間が育ち易くなります。「バレなきゃいいや」と考える人間が育ちやすくなります。
先人を敬うこと、弔うこと、葬儀を勤めること(お金をかけたくないのであれば、お寺に相談してもいいじゃないですか)これらはお金に変えられない大きな価値があるのです。
(もちろん、最低限かかる部分はかかります)
だからこそ、もっと葬儀を見直し、より良い社会を後世に残していきましょう。

最後に、「葬式は、要らない」という本を島田裕巳さんが書かれて売れましたね。
私は読んでいませんから、批判はできませんが、
もし、本当に葬儀が要らないと書かれてあったとしたら、それは間違いです。
本が売れる為に 敢えて言っているだけです。
確かに、本は売れたようで、次に「0葬」などと言い出しました(笑)
まあ、言論の自由がありますから、何をいっても構いませんが、それに踊らされたらいけません!!!
島田さんも、影響力あるんだから、大事なことは死守しながら、行動してほしいものです。
「仏様はすべておみとおしですよ」



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お彼岸にすること


おはようございます。副住です。

昨日はお彼岸の入りでしたので、お墓参りに来られる方々が多かったです。
また、暖かい一日でしたので、お墓参り日和となったことでしょう。

お彼岸はお中日(春分の日と秋分の日)を挟んで、前後3日づつの一週間です。
春分の日と秋分の日は太陽が真東から昇って、真西し沈む日です。

浄土真宗では、太陽が沈みゆく真西に西方極楽浄土を想い、大切な仏縁としてお勤めが営まれます。

法然聖人(親鸞聖人のお師匠さま)が定められた浄土三部経というお経があります。
浄土三部経は、浄土真宗の拠り所の経典でもあります。
三部経(サンブキョウ)といわれるのですから、三つのお経があるということです。
一つ目が『仏説無量寿経』(ブッセツムリョウジュキョウ)
二つ目が『仏説観無量寿経』(ブッセツカンムリョウジュキョウ)
三つ目が『仏説阿弥陀経』(ブッセツアミダキョウ)

この中の『仏説阿弥陀経』の中には、初めから
「如是我聞一時仏在舎衛国祇樹給孤独園与大比丘衆千二百五十人
倶皆是大阿羅漢衆所知識長老舎利弗(中略)・・・
 爾時仏告長老舎利弗従是西方過十万億仏土有世界名曰極楽其土
有仏号阿弥陀今現在説法舎利弗彼土何故名為極楽其国衆生無有
衆苦但受諸楽故名極楽」
とでてきます。
意訳すると、
「 以下のように、わたしは聞きました[如是我聞]。ある時[一時]、お釈迦様は舎衛国というインドにある国の
祇樹給孤独園という園におられました[仏在舎衛国祇樹給孤独園]。
大比丘(僧侶の別名)の方々、千二百五十人と一緒でした[与大比丘衆千二百五十人倶]。
みなこれ大阿羅漢という偉い位の方達でした[皆是大阿羅漢衆所知識]。
有名な長老の舎利弗さんや(中略〈中略部はそこにおられた偉いお坊さん達の名前が記載されてる〉)[長老舎利弗]・・・

そのときお釈迦様は、長老舎利弗さんに告げられました[爾時仏告長老舎利弗]。
これより西方に、十万億の仏土を過ぎて世界があります。極楽と名づけられています[従是西方過十万億仏土有世界名曰極楽]。
その土には仏様がおられます。阿弥陀と号するのです[其土有仏号阿弥陀]。
いま現におられまして、仏の教えを説いておられるのです[今現在説]。
舎利弗さん、その土がどうして極楽と名付けられているのかというと、[舎利弗彼土何故名為極楽]
その国におられる衆生には、諸々の苦しみが有ることが無いのです[其国衆生無有衆苦]。
ただ、諸々の楽を受ける為に極楽と名付けられているのです[但受諸楽故名極楽]。」

このように書かれてあります。こう見ていけば、皆さんもお経が読めるでしょう?
お経って漢字だらけで、難しい専門用語も沢山でてくるし、意味が解らないですからね。
呪文みたいに思われてる方もいるかもしれませんが、こう見ると、呪文ではないことが判ります。

さて、『仏説阿弥陀経』の初めには、上記のように書かれてあるわけです。
その後、西方極楽浄土の世界について、詳細に綴られてあります。
ただ、今このブログでは、お彼岸のことについて視点をあてているので、そちらの詳細は綴りません。

お彼岸は太陽が真東から昇って、真西に沈むという自然の摂理によって方角を確かめることができる貴重な日です。
太陽が沈みゆく真西には、『仏説阿弥陀経』に説かれてあるように、阿弥陀仏の極楽浄土がみられます。
そこで、昔から亡くなった方が極楽浄土に往かれたと受け止める方々が、お彼岸という機会に故人を偲ぶとともに
西方極楽浄土をお参りしてきたのです。とても大事な仏縁です。
お彼岸で大切なのは、故人を偲ぶと共に、故人から賜った仏縁を通じて 阿弥陀仏の教えを聞いていくという「やるべき事」があるのです。
どうぞ、お墓参りだけでなく、お寺で営まれるお彼岸の法要にもご参列ください。



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節分法話


一段と寒さが厳しく感じられる2月に入りました。しかし暦の上ではもう節分。冬から春へと季節を分ける節目の日なのです。
節分と言えば、夜に行われる豆撒き。
     “鬼は外!”         “福は内!”
お寺や神社、あるいは家庭で、豆を撒きながら邪悪な鬼を追い払う光景を目にします。でも、どうして節分に豆を撒いて、鬼を追い払うのでしょうか?

昔の日本では、春が一年の始まりだと考えられていました。だから、節分の翌日の立春が新年となっていたようです。新年を迎えるにあたって、禍〈わざわい〉を追い払う。そんな考えは、今も昔も変わりません。この禍を追い払う行事が、春になる前の日である、節分に取り入れられ、現在の邪悪な鬼を追い払う、節分の豆撒きとなったようです。

最近の節分には、年男・年女の芸能人などが、豆を撒いている姿をテレビで見かけます。なんとも微笑ましいひと時です。しかしながらその内容を考えてみると、とても笑えません。
豆を撒きながら“自分にとって悪いものは外に出て行け!”“自分にとっていいものだけは内に来い!”と大声で叫んでいるのです。そこには自分の事だけしか考えない、人間の本性の姿があらわされています。
 
私達人間は、自分に余裕が無くなれば、自分勝手に行動し、周りの状況を考えず、時には家族をも殺してしまう。私達の内側には、自己中心という邪悪な鬼がいるのです。

仏様の智慧とは、自も他も超えたはたらきです。そこには自分中心というあり方ではなく、自他〈じた〉平等の世界がひらかれています。仏様よりみれば、私達の世界のあり方は、様々な支え合いによって成立する世界です。“自分さえよければ”という世界ではないのです。
そのような仏様の智慧に照らされる時、私の内にいる、決して外に追い払うことのできない、自己中心という邪悪な鬼がみえるのです。なんとも情けない限りです。



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今月のご法話


こんにちは 副住です。

今日はご法話を・・・「スモークガラスの向こうから」
最近の車の後部座席の窓ガラスには、黒色のガラスや鏡のようなガラスが付けられています。いわゆるスモークガラスと言われる物です。スモークガラスとは、車内に載っている人のプライバシーを保護する為に創られた特殊ガラスの事で、そのガラスが付いている車に載っていれば、車外から車内の様子が見られることはありません。しかもそれでいて、車内からは車外の様子がしっかり見えるという優れ物です。プライバシーが重んじられる近年、このガラスを装備する車が増えているのです。
私の車にもこのスモークガラスが付いています。その車を運転して、ある時法事のお参りで都内に出向きました。少し早く門徒さんのお宅に着いてしまった為、近くの百円パーキングに車を駐車し、時間を調節する為、車内で待機する事にしました。エンジンを切り、後部座席に乗り換え、足を伸ばし、くつろいでおりました。しばらくすると、下校途中の小学生の男の子が駐車場に入って来て、私の車の奥に行き、キョロキョロとしていました。すると次の瞬間、壁に向かって用を足し始めたのです。
・・・我慢出来なかったのでしょう。思わず、笑ってしまいました。少年は、誰にも見られていないと思ったに違いありません。駐車中の車内のスモークガラスの奥に僧侶の私がいる事など、思ってもみなかった事でしょう。もし私が車内にいると気付いていたら、きっとそこで用は足さなかったでしょう。少年は“誰にも見られていない!”との自己の見解によって、用を足したのです。しかし、私は少年を見ていました。
 私達はついつい自己の狭い見識を頼りながら、またその見識にとらわれながら自分勝手に生きています。それはまるで少年が、見られている事実を自己(少年)の勝手な見解によってねじ曲げてしまっている様なものです。
 阿弥陀仏は、このような私達を憐れに思ってくださるのだそうです。また同時に愛おしく思ってくださるのだそうです。その結果このような生き方をしている私を放っておけず、“娑婆世界での縁が尽きたら、次には狭い見識にとらわれない世界へと必ず連れて行く”と誓っておられます。狭い見識を超える世界、それが仏の世界ということです。阿弥陀仏は誓うだけでなく、狭い見識にとらわれている私を仏とするために、現在私にはたらいてくださっているのです。どのようにはたらいているのかといえば、仏様の方向を向かないで生きている私を、仏様の方向に振り向けるようにはたらいてくださっているのです。実際にこのブログを読んでおられる方がいたならば、それは既に阿弥陀仏のはたらきとであっていることの証明でもありましょう。(阿弥陀仏のご法話を読んでいるのですから、阿弥陀仏の方向に向いているということでしょう)
 もし阿弥陀仏のはたらきをそのように受け止められないとすれば、それこそが自己の狭き見識によって害され、受け入れ難い状態にあるということです。しかしながら、私達が受け入れようが、受け入れまいが、阿弥陀仏は私達にはたらき続けて下さいます。スモークガラスの向こう側から。
私達はもっと、私達からは見えないスモークガラスの向こうから、常に見られているという事実(常にはたらいてくださっているという事実)を、あるがままに受け取らせていただく必要がありそうです。そこにこそお念仏の日暮があるのです。



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法話


こんにちは 副住です。

最近ご法話を更新しておりませんでした。
なので、今日は数年前に書いたご法話を載せたいと思います。
タイトルは「阿弥陀さまの本願力」にしましょう。
阿弥陀さまという、見えないはたらきについて書いたものです。

 私には一歳半の娘がおります。この一年半、初めての子育てに試行錯誤しながら、日に日に成長する娘の姿に驚かされつつ、親としての苦労も学ばせていただきました。親の思い通りに行動してくれない子どもを育てていくことは、思っていた以上に大変なものなのですね。

数ヶ月くらい前のことです。娘が歩き始めるようになってから、私達は二人で手を繋ぎ、お寺の境内をよく散歩するようになりました。私は以前から、ご本堂の前を通り過ぎるときには、阿弥陀さまの正面で手を合わせ、礼拝をしておりましたので、娘との散歩のときにも、同様のおこないをしておりました。
ある日のことです。いつものように二人で手を繋ぎ、ご本堂の前を通り過ぎようとしたときでした。娘がいきなり私の手を離し、阿弥陀さまに向かって手を合わせ、礼拝をしたのです。私よりも先に。
本当に驚かされました。まだ一歳を過ぎたばかりで言葉も話せない娘が、阿弥陀さまに手を合わせ、礼拝しているのです。しかも嬉しそうに笑っているではありませんか。

きっと娘には、自分のやっている事の意味はわかっていなかったでしょうし、笑っているところを見れば、遊んでいたつもりかもしれません。しかしながら娘の本心がどうであれ、私の眼には娘が阿弥陀さまをお参りしているようにしか見えなかったのです。
もちろん、いつも父親がやっていることを真似ただけだ!と言ってしまえば、それで終わりかもしれません。 
けれども、私は娘の行為の背景に、大きなはたらきを感じずにはおれませんでした。阿弥陀さまのはたらきを感じずにはおれなかったのです。
なぜならば、仮に娘が私の行為を真似しただけにしても、私が阿弥陀さまに手を合わせ、礼拝するのは、もとをたどれば阿弥陀さまに導かれたからなのですし、普段から親の思い通りに動かない娘が私の行為を真似したのであれば、尚のこと阿弥陀さまのはたらきによってとしか言いようがありません。
娘は間違いなく阿弥陀さまのはたらきによってお参りをしたのです。阿弥陀さまは、私に手を合わさせ、礼拝をさせ、娘を導いておられたのです。そして何よりも、阿弥陀さまは、そのような娘の姿を私に見せしめ、伝道のあり方を教えて下さいました。阿弥陀さまの願いは、私達のはからいによってではなく、阿弥陀さまのはたらきによって伝わっていくものなのです。何とも有り難い仏縁でございました。南無阿弥陀仏。南無阿弥陀仏。



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今月の法話


こんにちは 副住です。

今日は築地本願寺への出勤日でしたが、会議があり欠席させていただきました。
さて、今月のご法話をさせていただきましょう。

以前、自宅の録画機で録画をしていたTV映画、「佐賀のがばいばあちゃん!」を見ていたら、こんな一幕に出会いました。
小学校の低学年であった時分の島田洋七さんは、お婆ちゃんと二人で生活をしていたのでした。ある日お婆ちゃんが、
家の近くのきれいな川で洗濯をしていると、上流からトマトが流れてきたのです。お婆ちゃんはトマトを拾い、大切に持ち帰りました。
その様子を見ていた洋七さんの学校のお友達が、翌日、洋七さんに向かって“おまえの家は貧乏ばい”とからかったのです。
洋七さんは家に帰るとすぐ、お婆ちゃんに“うちは貧乏なんか?”と問いかけます。するとお婆ちゃんは“貧乏ばい”と答えたのです。
がっかりする洋七さんに、お婆ちゃんは続けました。“でも貧乏人はよか!金持ちは色々大変ばい。おいしい食べ物を選んだり、旅行する所を探したりしよるから。
でも貧乏人は、選ぶ必要なんか無か。あるものをそのままいただくだけばい”と。
確かに、お金持ちの人は、お金で買えるものなら、何でも手に入れ易いです。あとは自分の好みに合わせるだけです。
好みに合わない物は、切り捨てればいいのです。ただ自分の好みに合わせ、選ぶところに色々な迷いが生まれるのです。お金持ちは大変です。 
でも貧乏であれば、自分の好みに合わせ、選ぶ必要なんかありません。自分の好みに合わせる必要がないのだから、迷いが生まれることも無いのです。
ただ手に入る物を、そのままいただけばいいのです。お婆ちゃんの言葉には、そのような意味があるのです。
そのような貧乏人を、お婆ちゃんは“よい”と言ったのです。そこには“そのままをいただく”という心の豊かさが感じられます。
 この世界のあらゆる物事には、同じ物など何一つありません。一つ一つが、かけがえのない、有り難いものなのです。
“そのままをいただく”とは、あらゆる物事の、かけがえのなさに気付いているからこそ言える言葉だと思います。
まさに仏様のお心が、お婆ちゃんの言葉の中に生きているのでしょう。
仏様のお心とは、お金持ちや貧乏人を差別することがないお心です。全てを平等に慈〈いつく〉しみ、あわれみ、みつめて下さるお心なのです。
そのようなお心からすれば、あらゆるものは、一つ一つ尊くて、それぞれが大切なのだと気付かされるでしょう。
“そのままをいただく”お婆ちゃんの言葉の背景には、仏様のお心が隠されていたように思われました。
  最後に、お婆ちゃんは、こんな事も言っていました。
“お金は大切ばい”  “でもお金よりも大切なものもあるばい”



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本当に頼れるもの(そうだ、お寺行こう)


こんにちは 副住です。

今日は法話の日

東日本大震災後1ヶ月もたたない時に被災地に訪れたことがあった。場所は石巻市。辺り一面津波で押し寄せられた土砂や、破壊された家の木材が見渡す限り散乱していた。その絶望的光景の前に人間の無力感を感じずにはいられなかった。津波で命を失った人や、その家族、また家や財産を突然失った人々のことを想うと、気のどくに思い涙さえ流れてきた。まさに無常を痛感する現場であった。この無常を前にした時、人は何を頼りにしたらいいのだろうかと、とても考えさせられた。
『無量壽経』というお経さんには「田あれば田に憂へ、宅あれば宅に憂ふ」という言葉がある。「財産や家を持つと、執着心がおこり、失わないよう心配してしまう」とのことである。この震災は、失う心配を圧倒的に現実としてみせたのである。その教訓に学び、私達は本当に頼れるものを当てにしていきたいものである。
本当に頼れるもの?それは何だろうか。親鸞聖人は本当に頼れるのは阿弥陀如来であると仰る。どうしてだろうか?それを聴かせていただく一つの場所がお寺の法話会である。
そうだ、お寺行こう!~by JR東海の京都のCMをまねて~



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そのままをいただく


こんにちは副住です

今日は法話をさせていただきます。

先日、ビデオで島田洋七さんの「佐賀のがばいばあちゃん」という映画を見ていたら、こんなワンシーンに出会いました。
6歳位の少年が、佐賀県の学校で、友達に“おまえの家は貧乏ばい”といじめられているのです。少年は家に帰るなり、お婆ちゃんに“うちは貧乏なんか?”と問いかけます。するとお婆ちゃんは
“貧乏ばい。でも貧乏人はよか! 金持ちは色々大変ばい。 おいしい食べ物を選んだり、旅行する所を探したりしよるから。でも貧乏人は、選ぶ必要なんか無か。あるものをそのままいただくだけばい。”と答えたのです。

確かに、豊かな人は欲しい物が手に入る。あとは自分の好みに合わせるだけです。好みに合わない物は、切り捨てればいいのです。ただ自分の好みに合わせるという所に、色々な迷いが生まれるのです。お金持ちは大変です。
 でも貧乏であれば、選ぶ必要なんてありません。選ぶ必要がないのだから、迷いが生まれることも無いのです。ただ手に入る物を、そのままいただけばいいのです。そんな貧乏人をお婆ちゃんは“よい”と言ったのです。そこには“そのままをいただく”という心の豊かさが感じられます。

 この世界のあらゆる物事には、同じ物など何一つありません。一つ一つが、かけがえのない、とても有り難いものなのです。“そのままをいただく”とは、あらゆる物事の、かけがえのなさに気付いているからこそ言える言葉だと思います。まさに仏様の心が、お婆ちゃんの言葉の中に生きているのです。

仏様の心とは、全てを平等に慈〈いつく〉しみ、あわれんで下さる心です。全てを差別なく、みつめて下さる心なのです。そのような心からすれば、あらゆるものは、一つ一つ尊くて、それぞれが大切なのだと気付かされるでしょう。“そのままをいただく”お婆ちゃんの言葉の背景には、仏様の心が隠されていたのでしょう。

  最後に、お婆ちゃんは、こんな事も言っていました。
“お金は大切ばい”  “でもお金よりも大切なものもあるばい”



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今月の法話


おはようございます。 副住です。

今日は法話を載せようと思います。

“ゴミ箱”不要な物を入れる箱である。
京都の天龍寺に行った時、そこでは「護美箱」と記してあった。
“美を護る箱”と読むと分かり易い。
消費社会の日本では、当然の如くゴミは邪魔者として扱われる。
しかし、よくよく考えると、ゴミがあるから“汚れ”に気付き“汚れ”があるから反対の“美しさ”が分かるのである。
「美しさを護る箱」その陰にはゴミという“汚れ”が隠されてある。
本当の美しさがわかるのは、ゴミという陰にも視点が注がれた時であろう。
その時、ゴミはお陰様として頂けるのである。
ふと私達の生活を振り返ってみる時、“美しい”や“汚い”の区別を超えたお陰様の心が頂けているであろうか?
恥ずかしながら、自己中心の一方的見方しかできていないことに気が付くであろう。
まさに無明煩悩の我が身であることを傷むべきである。



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