立派な肩書


こんにちは 副住です。

福岡駅前の陥没は凄いですね。

驚いてしまいました。

さて、今日は夕刻から教誨があり、

私は川越少年刑務所に行ってきます。

教誨では、被収容者(受刑者のこと)の方と

お話しをします。(今日は宗教教誨なので、宗教について)

私は教誨師を始めて5年になるのですが、最初は

一方的に仏教の話をしていました。

諸々研修を受けるにつれて、段々と一方的な話ではなく、

被収容者と「ともに」がいいのかな!?と思うようになり、

近年では、被収容者の方と会話形式で教誨をすすめています。

すると、こちらもとても勉強になる発見が多くなりました。

被収容者の方の、これまでの生きざまや刑務所に入って学んだことなど。

生の声、実感の声を聞けるからこそ、こちらも学ばされるのです。

今では、教誨を通じて「学ばせてもらっている」と言っても

過言ではない程です。

もちろん、被収容者の方の影には、被害者の方がおられるので、

被収容者の方から「学ばせてもらっている」とは言えません。

そうではなくて、教誨という環境そのものに「学ばせてもらっている」

という意味で受け取っていただければと思います。

だから、教誨(特性の育成とか、教えさとすことという意味があります)師

などと立派な名称の肩書がありますが、実際は逆なのです。

(教誨という環境に)教えられているのです。