孔子の論語 「四十而不或」


おはようございます。住職です。

孔子の論語に「40にして惑わず」との言葉があります。

孔子が晩年、自分の人生を振り返って言ったと言われる一部分

です。詳細はこちら↓

孔子の論語の該当部分

つまり、40歳になれば、これまでの基礎を軸に、ある程度、

人生で迷わなくなるのだ!という意味でしょう。

私も何となく、40代となってから、浄土真宗の教えを基礎とし

て、色々と経験し社会も見えてきたのかな。

と、これまで思ってました。

何と短絡的で慢心な自分であったか!ということです。

この論語の「40にして惑わず」との部分ですが、漢文で書けば

「四十而不惑」となるのですが、ここに異説があるのです。

「四十而不惑」ではなく、「四十而不或」だろう!と

「惑」ではなく「或」だ!との説です。

なぜそんな説があるかと言えば、全体の意味が「或」であった

方がすんなり理解がいくからとのことです。

孔子は本来「或」と言っていたのに、どこかの誰かが間違って

「惑」となってしまった!と言われたりします。

「惑」と「或」では、意味が正反対となってしまうのです。

「或」は「國」の中に入っている字であるように、意味としては

枠の中!とのことらしいです。

だから、「不或」とは枠を作らなくなる!という事らしいです。

つまり、人間40になれば、専門という枠からでて、さらに色々な

ことを学んでいく!との意味らしいです。

そうだから、つづく「50にして天命を知る」と繋がるとの事らし

いです。こうなれば、全体の意味が通じやすくなりますね。

四十而不或の説

私は自分の経験から照らせば、「二十にして学にこころざし」

(大学で浄土真宗の教えを勉強)

「三十にしてたつ」

(浄土真宗の教えが身に染み、それが生き方となっていった)

「四十にして枠をつくらず」

(最近、専門から抜け出し、色々な方面の勉強をしなくては

ならない環境になって・・・師匠がたくさん出来て・・・)

となっているように思う訳です。

通説の「40にして惑わず」であれば、(40代になってお寺の

世界の中で生きていく!)となってしまうでしょう。

ただし、これだと、今の私の経験からはズレてきているのです。

これまで、私は40代になったし、そろそろ落ち着いてお寺の世

界で生きていこうか!と思っていたのですが、どういうわけか

環境に流されて、私の人生は異説の方向に向かっています。

楽をしたい私なのですが、どうも環境がそれを許してくれないよ

うです。

現在、専門を超えて、色々な分野の方と関わるようになって、

それこそ、色んな勉強をせざるを得ない状況となってしまってま

す。そんな今、思うことがあります。私は知らないことが多すぎ

る!という事実です。専門の中に留まっていたのでは、狭い人生

だったかもしれません。それにしても、知らないことが多すぎる

ということは、やらなきゃならないことが多い!という事になり

ます。たぶん、こんなにやらなきゃいけない事が多いと、一度き

りの人生では、追いつきません。もちろん、サボりたいし。

あまりにやる事だらけ!と気付いてしまい、昨日の

「人生は一生頑張らないといけないんだ」と思ってしまって

いるのです。これが、相当メンタルに堪えます。

だって、そろそろ楽になりたいじゃないですか。

逆なんだもん。しかも一生続くんですよ。ゴールないんだもん。

私はそんなメンタル持ってないよ!

もうゴールの気分だったもん。涙。