合理性での無駄とは何か?(理性と感性のバランス)


おはようございます。副住です。

2015年03月14日からの連載です。今日は3回目。
さてさて、本題に戻ります。
私たちは、ついつい「合理性」を追求してしまいます。
例えば、車がなかった時代は歩くことが当然でした。その後、車ができたことで、歩いて30分だった所が、車で3分の距離になりました。
札幌から大阪まで、これまでは寝台特急「トワイライトエクスプレス」で一泊の旅でしたが、新幹線が整備されたことで数時間の距離となるのでしょう。
これらを私たちは合理的で「良いこと」と思ってしまいます。

「合理性」という「無駄を省く」立場から考えれば、移動時間の短縮は、この上ない成果です。
おそらく日本社会では、この成果を「良し」と判断する雰囲気があります。かく言う私も「良し」と判断します。
一方で、「無駄」として、切り捨てられたものの中には、例えば
A、歩くことで体感できる道端の草花の表情や自然の伊吹を感じる心。
B、寝台特急であれば、「夢」や「豪華寝台の空間」を楽しむ心。

「時間」を軸に「無駄」を考えれば、AもBも切り捨てられて「致し方なし」と考えられてしまいます。
AもBも人間の「感性」「心」に大きく関係するものですから、合理性の中では切り捨てられて然るべきとも言えるのです。
なぜなら、前日のブログに「合理性」の意味で綴った「人間の理性(感情におぼれずに、筋道を立てて物事を考え判断する能力)に合致」という部分と繋がるからです。
つまり、人間の「感情(心)におぼれず」に、論理的な判断を優先することが合理性の意味なのですから、感情的な側面は後回しにされていく流れとなってしまいます。
(最も、今は極論を述べているのですが・・・)
(明日は、合理性の基準について綴ってみます)

合理性の基準とは? 無駄の基準。経済合理性という罠 (理性と感性のバランス )

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