合理性の基準とは? 無駄の基準。経済合理性という罠 (理性と感性のバランス )


おはようございます。副住です。

2015年03月14日からの連載です。本日で4回目。
今日は、現在の日本社会における「合理性」の「基準」に視点をあててみたいと思います。
合理性が求められる日本社会(現在の日本人の多く)で、「無駄を省く」ときの「無駄」の基準となるものとは何なのでしょうか?
見方を変えれば、これまで「無駄」と思えたことも、「無駄ではない」ともみえるのです。
実際、現在の日本社会では「無駄」と言われるものは多々あります。
では、「無駄」と判断する基準とは何なのでしょうか?

私はこれまでの経験から、「無駄」と判断してしまう基準となっているものに、経済の「利益」が関係しているのだろうと思っています。
つまり、「お金」を生み出すことが基準となって、「無駄」か「無駄でないか」が判断されているように思えます。

そこで、経済の合理性ということに視点をあててみると、「経済合理性」という言葉が見えてきます。
経済合理性とは「経済的な価値基準に沿って論理的に判断した場合に、利益があると考えられる性質・状態」という意味のようです。

つまり、お金が生み出せるか、生み出せないかを第一の基準に、物事を考えていく状態を「経済合理性」というのでしょう。
まさに、現在の日本社会は、この「経済合理性」が物事の判断基準となっているのではないか!?
あるいは「経済合理性」という基準が、日本社会の「価値基準」となっているのではないかと思えてならないのです。
(もちろん、お金は大切です。そんなことは承知しています。問題はお金が突出した第一の価値基準となってしまっているように思える日本社会の雰囲気にあると言いたいわけです)

このことを、多くの日本人が意識的に理解しているかどうかは別問題です。
むしろ、多くの日本人は意識的に、そのことが理解できていないのかもしれません。
理解していようがしていまいが、そんなことはどうでもいいのです。
むしろ、社会の雰囲気として「経済合理性」の価値基準が浸透していっている。
だから、意識的に理解できていなくても、全体がそのような雰囲気だから、無自覚的に自分もそのように染まっていってしまうということです。
きっと、こうやって社会の意思というものが確立されてしまうのだろうなと感じます。
無自覚的だからこそ、何だか「生きづらくなった」とか、「心が疲れてきた」などと感じる方々が増えてきているのではないかと思います。
(明日は、「感性」の重要性について綴ってみようと思います)

感性にもっと重きをおこう (理性と感性のバランス)

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