お寺を継ぐ・・・副住職の体験②


こんにちは 副住です。

連日の連載です。

私は修士1年生の後半でした。

ある朝いつも通り目覚め、布団の上で少しボーとしていました。

目で見えている部屋の情景は、いつもと変わらないのですが、

何といえばいいのか、心で感じる情景が異なっていくのです。

どう説明すればいいのかわかりませんが、全てが尊い、

全てが、かけがえのない、輝いているように捉えられたのです。

ただし、肉眼での見え方は、いつもと変わりません。

しかし、心での感じ方が全然違う。初めての体験でした。

周りの全て(空気さえも)が、遥か昔からの縁によって、

現在に至っていることが、心に染みてくるというか。

そう思えると、全てがとてつもなく貴重すぎて。
(この時の状態は、例えば、へんな話ですが「うんこ」とかでも尊く、輝いて捉えられる状態なのです)

と同時に、そんな全てに私も包まれているというか、支えられているというか。

しかしながら、私の内面(自我ともいうのか)は、これまでそのことに

気づかずに、また“そのもの”になりきれない。

だから、ある種の罪悪感を抱くこととなるのです。
(どんな罪悪感かと言えば、全てが尊く貴重で、あるがままであるのに、
私はそうではないのです。私は、あるがままを、あるがままと判断できず、美しいだの汚い
だの自分勝手な見方をしてしまう。そんな濁った私がいるのです。それが罪悪感の一つ)

と同時に、そんな私でさえをも、今現にこうして何も言わずに包んでくれている。許容して

くれている現実。

縁起とも言うべく事実と、縁起になれていない自分に、ただただ涙が溢れ出て、ただた

だ全身が地(床)にひれ伏せていくしかできない。
(私の中では、五体投地とは、たぶんこの感覚が身体表現としてでたあり方です。凄く理解

できます。私もこの時、五体投地に近い状態でした)

しかし、ひれ伏す地(床)そのものだって、尊いのです。そう思えると、

地の上に私がいることすらも、申し訳なく・・・身のやり場がなく、

ただただ、申し訳なく、ただただ、頭というか全身が下がっていく・・・同時に、そんな私

であるのに、地の上に居ることが許されている事実・・・

上手く説明できませんが、そのような体験をしたのです。

時間的に言えば、数分だと思います。

その後は、いつものようになっていきました。

この体験は、体験をしてから今まで、約17年経っていますが、

これまで数人の人にしか、話したことがありません。

だって、変だと思われるし、何よりも誤解して受け止められたり

ナイーブな事柄だからです。

それに、他人に言っても何を生み出すものでもないと思ったからです。

何故、ここで綴ったかと言えば、今年の初めにある方から「芸術も宗教も同じように、人間

界の世界を超えた世界との出会いです。それを伝えることができるのは、出会ったことのあ

る方だけ」と言われたことに起因してます。

そのようなわけで、私にとっては、上記の経験から、摂取不捨とはこれだ!と心の底か

ら思わされ、心底納得させられる体験となったわけです。

これは、頭で仏教の基本を理解した後に起こった体験です。ただ、どうしてこんな体験をし

たのかなんて、私にはわかりません。(私は感性が鈍いし)

また、どうやったらこのような体験ができるのか、と聞かれても私にはわかりません。

これ以後、私は勉強(研究)をすることに対して、消極的になってきました。

結局、博士課程まで進むこととなりますが、すでに大事な経験をした私にとって、頭の学び

は、さほど価値を感じなくなっていました。

続きはこちら↓

お寺を継ぐ・・・副住職が思わされたこと

 

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