おはようございます。副住です。
実は昨日、時間ができたので、久しぶりにおじ様を
お訪ねしてきました。
色々とご報告もあったし、鑑賞会にて教えていただいた
お墓の件など、写真を見てもらって、確認してもらいたかった
からです。
さすがおじ様、私が読めなかった墓碑に書かれてある内容を
簡単に読んでいかれます。予備知識の量が違うので仕方ない。
そこで明らかとなったことがありました。
それは、昨日ブログで綴った内容と若干異なる点。
分家は分家なのですが、かなり勢力が強かったようです。
分家の〇〇家は、旗本だったようです。
旗本というのは、江戸時代の将軍直属の家臣で、1万石未満
のもので、将軍に謁見できる位だったようです。
(つまり、子分のようなイメージですね。将軍の家族的な)
〇〇家は、全国にいる旗本の中でもトップクラス。
大名一歩手前の勢力だったそうです。
(因みに、大名は1万石以上で、将軍に属するものではなく、
将軍のライバル的なイメージ。
従って、様々な義務(税)が課されてあったようです。
要するに、大名は将軍のライバルになる懸念がある為、
厳しい税を課して、力を伸ばせないようしていたわけです)
大名になると大変なので、〇〇家は、お願いして旗本のままでいたそうです。
全国トップクラスの旗本ですから、それなりの勢力をもっていたそうです。
その〇〇家の名称の名残は、現在のとある基地の名前にもなってます。
あそこも領地だったそうです。おじ様情報。
だから、入間の地や比企の地にも勢力が及んでいて不思議ではないのだそうです。
さてさて、当初おじ様から引き継いだ文化財は、
血筋的には若干私も関係しているけれども、地域的には全く関係ないな!
と思っていたのですが、どうやらそうでもなさそうです。
〇〇家の分家が、古くこの一帯で活躍していたようですから、
そういった意味では、不思議と関係がある場所になるのだな。と今となって思っています。
いずれ、そのようなことも調査を深め、
しっかりと語り継げるように整えねばならないと思っています。今後の私の宿題ですね。
明日は、最後に文化財鑑賞会の報告も含め総括を行い、
ひとまず本件を閉めようと思います。