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今日は第二土曜日:西照寺法話会


おはようございます。副住です。

本日は第二土曜日、西照寺法話会の日です。

場所は西照寺本堂

時間は13時半から 読経
   14時から  ご法話

前回から歎異抄を読み始めました。

先月、法話会をお休みしたので、

今回も、前回の復習を兼ね、歎異抄の

始めから話をしていきます。

どなたでも、ご参加いただけます。

参加費は無料です。


お寺の本質


おはようございます。副住です。

さて、お寺って随分長い歴史があります。

日本の歴史を見てみると、聖徳太子が仏教を

取り入れ、四天王寺や法隆寺を建立された!と

習いました。

ですから、600年頃にはお寺は日本にあったわけです。

その後、現在まで1400年ほど続いています。

私の関心は、何がお寺をこれほど長く日本に存続させて

きたのだろう?という部分です。

1400年も経っていれば、その時代その時代で

常識だって変わるだろうし、習慣だって変化してきている

はず。もちろん、価値観だって変化してきているはずです。

しかし、お寺は絶滅しないで残っている。
(もちろん、個々のお寺という意味では、廃寺になったりしてますが)

時代を超えて、お寺が残っている本質に、私は興味があるのです。

これからの時代、特に変化が異常に早く、価値観さえもがバラバラに

なっていく時代と言われます。どんな業種であれ、存続する保証はありません。

お寺もある意味、同じだと私は思っています。

ただ、お寺には1400年続いてきた!という歴史と事実があります。

それは、時代時代に存在を望まれてきたことを意味しているわけです。

だからこそ、その本質を見極めることが、今後、お寺が滅亡しない

道に繋がるのだと思っています。

そんな関心事を心に秘めながら、活動をしているここ数年です。

でも、なかなか答えに至りません。

ずいぶん、難しい道です。


常識を疑うことから・・・


こんにちは 副住です。

連載の投稿内容に戻ります。

そもそも長い時間、常識が常識のまま成立するには、

その都度常識を問い直す必要があると思っています。

昨年の常識は今年の常識とはなり得ないこともあるからです。

それが諸行無常でしょう。

もちろん去年の常識が今年の常識ということもあります。

問題は、常識を判断する私たち一人一人が、

「常識」に対して主体的に考えているかどうか?だと思います。

「常識」を疑うことから、新しい突破口が見えてくる時

があるし、そこから面白さが加わってくる場合だってあるのです。


今日の報告


こんばんは 副住です。

今日は「西照寺文化財鑑賞会 2018 春」でした。

10時から開場し、30分ほどしてから途切れること

がなく、鑑賞会に来て下さる方がおられました。

嬉しかったです。

また、JCで一緒に活動したTさんご夫婦も

個人的に来てくださったことは、とても嬉しかった

です。情報を知って、来てくださったようです。

ただ、ゆっくりと説明や対応ができなかったことが

申し訳なかったと思いました。後日、感謝を伝えます。

それにしても、終了時刻の15時まで人が来てくださった

ことは、本当に有り難いことでした。

明日まで鑑賞会はありますが、明日は平日だし

どうだろうな。と思います。

一日のみと勘違いした父は、外の幟を下げてきてしまいました。

明日もあるのに。


継続事業


おはようございます。副住です。

「多くの人が共通して思うこと」の中には、

「何となく思っている」という単純なことも含まれています。

つまり、多くの人が「特に理由はないけど、何となくそう思う」的

な「常識」も多くあると思います。

私は、多くの人が各自で真剣に考えた結果、

「共通して思うこと」が「常識」であれば素晴らしいなと思います。

もちろん、全部のことに、そんなことできませんがね。あくまで理想。

しかし、現実は多くの場合で考えを放棄していて(私もそんな時もあります)、

「特に理由はないけど、何となくそう思う」的な「常識」も多く

存在していると思います。

そのような「常識」は、論理的に考えると、結構説得力に欠ける場合があります。

例えば仕事においても、「継続事業でやっているので、今年もやります!」

的なことってありませんか?

継続事業ということが常識化されてしまい、何となく今年も行う!

みたいなパターンです。

この場合、「継続事業なんだから、今年も何となくやろうと思う」みたいな

常識が築かれてしまいます。

それはそれで良いとも思いますが、私的にはダメなのです。

考えを放棄しているように感じるのです。

私の場合、まず「何で継続事業となったの?」から入ってしまいます。

つまり常識を疑うことから入ってしまうのです。

ただし、そこで継続事業に対し、自分が納得出来たら、

今年も目的をしっかりと見据えて行おう!となるのですが。


常識とは


おはようございます。副住です。

常識から外れるということは、協調性という意味

からすれば、良くないことかもしれません。

ところで、常識って何なのだろう? 

世間で言われる常識というものは、一体誰が決めてるのだろう?

おそらく、多くの人が共通して思うことが「常識」と呼ばれる

枠組みを形成しているだけで、

定まった「常識」なんて、そもそもないのです。

ただし「多くの人が共通して思うこと」には説得力があります。

「皆がそう思っているんだから」・・・ということは、

何となく説得力を持たせますね。正しいような気がします。

皆がそう思っているんだったら、そういうことにしておこう!みたいな。

ここまでくると、ある意味考えることを放棄した状態になってる。

考えを放棄することは、ある意味楽なのです。

とりあえず、考えるの面倒な場合、皆と同じにしておく!とする

いわば、考えることを放棄することは、楽でもあります。

まして日本人は協調性を重んじる文化がありそうなので、

「皆と同じ」的な位置に居られることに安心感を覚えるのかもしれません。

これはこれでとても良いこととも思います。

ただし、私の生き様の中に、そうなっていない時があるから、

それを綴っているだけなのです。つまり、考えないといけない時もある。

ということです。


日本的な何か


おはようございます。副住です。

私は、稀に日常生活の中でも、

ふとした瞬間に周りから見たら可笑しな

行動をとっていることがあるようです。
小さなことですが。

以前、大学院生だった頃、

後輩と一緒に歩いていた時に言われたことがあります。

「網代さんって、やっぱり普通じゃないですよね。

変わってますよ。大学院行く人って変わってる人なんですよね」です。
(因みにその後輩も、何故か大学院に進学してきましたが)

なんでそんなことを言われたかと言うと、

私は歩道を歩いている時、一直線に歩くようです。

そこで、大きな交差点に差し掛かった時、

横断歩道が少し進行方向左側奥に入っていますが、

私は横断歩道までいかずに、そのまま一直線に渡っていたようなのです。

普通の人でもそうすると思うのですが、後輩の彼には、変に映ったようです。

因みに横断歩道までいかなかった理由は、

渡ったらどうせ同じ歩道まで戻ってくるからです。

彼いわく「皆は横断歩道を渡っているのに、

なぜ網代さんだけ一人で横断歩道から離れた場所を渡っているのだろう。

目立つし、恥ずかしくないの?」と思ったようです。

因みに、後輩は横断歩道を渡っていたようで、

その時私は一人で孤立して道を渡っていたようです。
(意識してなかったので、全然覚えていない。
後輩から後で言われたことだけ覚えています。
以来、横断歩道を渡るように心掛けています)

このような小さな人と違った行為は誰にでもあるものと思います。

でも、後輩のように、常識という枠からはみ出ること自体を変!

とか、恥ずかしい!と思う人は多いのかもしれません。

それが「日本的な何か」なのかもしれないとも思います。


常識にとらわれない


おはようございます。副住です。

連日綴っております通り、私の特徴は
①主体的に考える
②論理的に考える 
ことが特徴だと自分で思っています。

ですから、稀に「網代って変わっているよね」

「普通じゃないよね」と言われることがあります。

おそらく、世間の常識からズレているということを

言いたいのだろうと推察してます。

言われても全然気にしてませんが、

今振り返ると結構失礼ですよね(笑) 

私的には、自分が納得できるかどうかが最初にきて、

世間の常識は後回しになったりする場合があります。

換言すれば、自分が疑問に思ったことに関しては、

常識さえも疑っていくというか、

常識は二の次になってしまうことがあるのです。

もちろん、世間の常識も重要視していますよ。

TPOはわきまえているつもりですし、

そんな変な行動はしてないです(笑)。

ただ、本質的な部分で、世間の常識などに

振り回されない感じです。

本質的な部分で、自分はどうなのか?ということ

を問うタイプということです。

もしかしたら、大学院時代に研究をしていた

ことも影響しているのかもしれません。

研究では、時として、これまでの定説さえも

疑ってみることも大切だから。


大事なのは主体的に物事を考える習慣


こんにちは 副住です。

私は大学で勉強をするようになって以降、

今でも何か物事を進める時でも、

最初に「なんでそれをやるの?」と考えて、

自分が納得してから始めます。

つまり「目的」をしっかりと明確化することを

大切にしているのです。

もちろん、目的だけが大切なのではありません。

「なんでそれをやるの?」ということと繋がって、

「それをやることになった経緯」も踏まえないといけなく

なります。(JC(青年会議所)で議案をつくる際には、

それを「背景」と呼んでいますが)それらが出来上がったら、

実践となっていきます。

そこには方法論を考えたり、戦略がでてくるのでしょう。 

しかし、ここでも一番大事な点は、「私がそれをやりたいかどうか」。

つまり「私が取り組みに納得できるかどうか」なのです。

時にやらされている仕事もある場合があります。

どうしてもやならいといけないという意味です。

しかし、そんな時でも、自分がそこに納得していく!

その気持ちにもっていくことで、本当はやらされている

仕事なんだけど、主体的になっていけます。

私は常に主体的に物事を考える習慣が身についているのが特徴

だと思います。もう一点は、他の人から言われることですが、

とても論理的だそうです。

(もっとも、宗教家としての私には、論理的という言葉は誉め言葉

と受け取れません。

おそらく宗教は論理も大事ですが、もう一方で感性が大事だから)


学ぶ姿勢


こんにちは 副住です。

調子を崩しました。でも投稿

過日からのブログで綴っているように、私は、自分が人生をかけて、

お寺を継いでいいものかどうなのか?を知りたくて、

勉強をしてきました。

ですから、私の勉強の姿勢には、常に「どうして?」

という疑問がついてまわりました。

例えば、「極楽浄土」とか言いますよね。

それが私の学びの中では、「極楽浄土って何?

私にとってどう関係するの?」みたいな視点で疑問を持つのです。

「極楽浄土って何?」と疑問をもっても、お経の中に、

極楽浄土の説明はされています。私的に簡単に書けば

「阿弥陀仏の世界。苦しみを超えた世界」みたいな感じです。

一応「極楽浄土って何?」との疑問に対する答えはお経で確認できるのです。

「お経にはこう書いてある」と納得できる人であればいいのですが、

私は違います。

「お経にそう書いてあっても、だから何なの?」

「それが私にどう関係するの?」と疑問に思ってしまうのです。

おそらく、そこまで疑問に思う理由は、

私が人生かけてお寺を継いでもよいのかを知る為に、

教えに納得しなければ嫌だったからにつきると思います。

だから、「私にとって、それが何なの?」という学ぶ姿勢

が常にあったわけです。

今から考えれば、日本の教育は詰め込み式(私の時代のことです)

といわれますが、それって、「教科書にこう書いてあるから」

みたいなことで、自分が納得できるかどうかはあまり重要

ではなかったようにも思います。日本の教育環境がそうだったのでしょう。

だからなのかはわかりませんが、私は小・中・高校と、とても勉強嫌い

でしたし、成績も悪かったのです。

興味がわかないし、詰め込む頭となっていなかったのでしょう。

生来詰め込み式教育が合わないタイプなのかもしれないし、

単に詰め込み式の勉強から逃げていただけなのかもしれません。