浅草御堂から築地本願寺への移転事実 


(文中の写真は投稿後に100%表示に変更いたしました)

おはようございます。副住です。

先日、西照寺のご門徒Tさんより

貴重な情報を教えてもらいました。

それは今の築地本願寺が、どうして築地の地に

移転してきたのか!?ということについての

新事実でした。

日経新聞の記事を添付してくださり、私も初めて

知ったくらいです。

どうしても、写真が100%表示されません。

なので、以下、補足です。

築地本願寺は、江戸初期、浅草(現:日本橋)にあったのです。

1617年に始めて江戸の地に建立されたのです。

その当時は浅草御堂と呼ばれていたのです。

(浅草橋という近くに建てられたので、浅草御堂と呼ばれて

ました。東京の浅草の地にあったわけではありません)

(ここ間違いやすいので、要注意なのです。上記新聞の記事も誤

記です。「浅草には東本願寺があり、門徒が少ないから」・・・

などとありますが、これが誤り)

(日本橋の地にある浅草橋近くにあったので、浅草御堂と呼ばれ

ていたのであって、浅草の土地にあったわけではありません)

しかし、1657年に起こった明暦の大火(メイレキノタイカ)

(当時の江戸の3分の2を焼失させた大火事)の影響で

浅草御堂も焼失します。←ここまでは事実。

ここからが問題。私はこれまで以下のように学んだのですが、

どうやら新事実が判明したようです。

私が学んできたことは、

「焼失した御堂を再建しようとした本願寺ですが、

幕府が区画整理をする(大火事とならないよう、通りを拡げる

為)との理由で、当地(浅草橋)での再建が許されず、

代替え地として、海上を与えられた。

海上じゃないか!大変だ!となってご門徒(特に佃島の方々)の

ご協力の末、海上を埋め立て地を築いた(築地)。そこに御堂を

再建し、築地本願寺となった!」という話です。

因みに、どうして海上の代替え地とされたのか?と言えば、

西本願寺は家康(一向一揆で苦しめられたし)から面白く思われ

ていなかった説や、幕府が領土を拡げたい為、西本願寺を利用し

て、海上を埋め立てさせ、領土の拡張を図った説などがあります

因みに、資料の写真もアップしておきましょう。

あぁ、また100%表示されず。。。(`艸´;)

でも、右から5行目中央からやや下にあります。

「御堂は幕府の区画整理の為に、現(築地)」とあるのです。

この資料は『築地別院史』(もう出ていない)という本にある

文章です。私もここから勉強したのです。

 

さて、以下が新聞にも紹介された新事実。

実は幕府は再建を許そうとしたけれど、本願寺との話し合いで

本願寺側が、海上を埋め立て移転したい!と申し出たとの事です

数年前に新資料が見つかって、明らかとなった!そうです。

全然私が学んだことと、話が違うじゃないか!!!(`艸´;)

これまで、私は江戸幕府って意地悪だな!とか、思っていたのに

全然そうじゃなかった。徳川様を筆頭に、江戸幕府様

これまで悪く思っていて、申し訳ありませんでした。

歴史ってこれだから面白い。全然事実と違って伝わっているので

すから。新事実や新資料がでてくれば、歴史は変わっていくので

す。今、私達が知っている歴史なんて、事実とどれだけあってい

るのでしょう? 歴史は事実誤認や時の勝者によって、捻じ曲げ

られてしまうものでしょうし、きっと本当は全然違っていること

だらけかもしれないのです。

いやいや、今回は端くれ研究者であり、僧侶の私よりも、ご門徒

のTさんの方が情報が早いだなんて・・・恐れ入りました。

西照寺のご門徒って。。。すごい。(笑)