式典の意味


こんばんは 副住です。

今日は東松山市の学校の卒業式の日でした。

我が子も、今日で卒業しました。

私の母校を子供が卒業。30年の違いがありますが

同じ学校の卒業式に、当時を思い出しながら列席

してきました。

当時より、子どもの数が激減。学校の校舎は同じ。

私達の学年が卒業した時の卒業記念として残した

壁画みたいな物は、未だ玄関に飾られてあります。

懐かしい。

式典は、大事なものですね。

そういえば、どこかの市が、成人式が荒れるので、式典を

行わないと言い出した問題を思い出しました。

そうそう。それで本願寺新報という新聞で記事を書いた事があ

ったな。それを思い出したので、以下に添付してみます。

2017年の1月号の記事です。

新年を迎え、8日には全国各地で成人式が行われた。毎年、荒れた成人式が問題となる中、兵庫県の加西市では、例年行ってきた式典の開催を取りやめた。12月23日の「神戸新聞NEXT」の記事によれば、昨年、式典が荒れた加西市では、成人式の開催を含め検討を重ねてきた。特にインターネット上で市民にアンケートを行ったところ「成人式を必要と答えたのは6割。一方、「友達との再会や同窓会の場があればよい」と思う人が約7割」に上ったとの声を報じ、式典の開催を取りやめ、新成人が立食形式で歓談を行う「新成人の集い」に変更することを伝えた。

現在のような地方公共団体が主催する成人式のルーツは、第二次世界大戦後に埼玉県蕨町(現:蕨市)において行われた「青年祭」にあると言われている。敗戦後の殺伐とした雰囲気の中、次世代を担う青年たちに希望を持たせたいと始まった。それがわずか二年で全国的に広がり、日本国政府は「おとなになったことを自覚し、みずから生き抜こうとする青年を祝いはげます」との趣旨のもと、1948年に「成人の日」を定めている。以来、各地で日を同じくして、成人式は開催されてきた。

それが今、ついに「おとなになったことを自覚」する場としての式典がなくなる事態を迎えてしまった。まさに儀式が軽んじられる時代の証左である。今後、他の地方公共団体も追随するかもしれない。

そもそも「式典」とは「儀式典礼」の略で、要するに「儀式」「儀礼」のことである。この「儀」ということに関して、以前、あるシンポジウムで柴田千頭男ルーテル学院名誉教授が「儀という意味は、形式ではなく、儀が持つ内容がある。内容を表すから儀式なのである」と指摘していた。

つまり「儀式」とは、目に見えない内容を、形式で表すものなのである。成人式の儀式(式典)は、目にみえない抽象的な「成人」という内容を、式典を通して明らかにし、自覚させるケジメの場なのである。ここに「儀式」の本質がある。だからこそ私は、「おとなになったことを自覚」する意味において、式典こそ最も大切に扱われるべき位置づけになければならないと考える。

現在、当然のように「儀式」の簡略化や効率化が求められる。しかし、儀式の本質から目を逸らし、安易な考えで「時代に即した形にする」ことだけは避けるべきだ。無形の価値に着眼し、再構築することが必要なのだろう。