宗教的感性、芸術的感性、文化財的感性 共通してると思います


おはようございます。副住です。

連載の続きです。

役割を終えた私は、帰宅しました。

すると、数日後また手紙が届くように。

私は???と思いましたが、またもや放置
(手紙を書くのが苦手なのです)。

しかし、何度も手紙が届くので、再びお詫びの電話を。

すると、また来てください!と言われ、

再度、時間をあけて再々来訪。その時だったと思います。

おじ様との会話で、意気投合してしまうこととなります。

おじ様は数本の貴重な日本刀をお持ちで、それらを数十年、

ずっと手入れをされてきたのですが、

これまでのご自身の経験の中で、

日本刀の手入れをしている際、

極まった状態となったことがあるのだそうです。

その時、刀を磨いていると、「自分の意思とは関係なく、

手がポンポンポンと勝手に動いていく。

刀と自分が同化しているような、

刀が磨いてほしい部分が伝わってきて、

だから手が勝手にそこを磨きだすの。

そんな境地があるの。本物に触れるとうことは、

そういうことなんだろうと思うの」との発言をされたのです。

私は驚きました。ズバッと心に響いたのです。

まさに同感。まさに宗教の世界も同じなのです。

ちょうど私が「感性」ということについて、

その重要性を考えている最中だった時の出来事だったし、

余計にビビビッときたのです。今から3年ほど前の出来事です。
(因みに、感性について、過去のブログで綴っています。
例えば、

宗教的感性を磨く必要 (ご法話 話し手と聴き手のミスマッチ)


この他にも、感性を取り上げています。詳細は【ブログ内の検索で
感性 と打ち込んで探してみてください】

おじ様の発言は、まさに宗教本質と通じていることだと思いました。

この時からです。おじ様との会話が本当に楽しい会話となったというか、

美術品・文化愛・芸術の世界に私が強烈に興味をもちはじめ、

その可能性を感じるようになったのは。

たぶん、芸術や文化財などの世界にも、

理論を超える世界(私を超える世界)があるのです。

むしろ、芸術や文化財などの道の方が、

宗教よりも感性を育みやすい環境なのかもしれません。